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長崎県文化財データベース 世界の中の長崎

世界の中の長崎 ~長崎県の海外交流史と文化財~

■ 大陸との接点

《大陸との交易の拠点》

 古代から、中国大陸や朝鮮半島と、対馬・壱岐を結ぶ航路は、重要な国際交通路でした。長崎県下で発掘された考古遺跡には、大陸との交易や文化交流を示す数々の痕跡が残されています。

 壱岐の『原の辻遺跡』(国特別史跡)は、弥生時代を中心とする大規模な多重環濠集落跡(幾重にも堀で囲まれた集落跡)で、中国の三世紀の歴史書「三国志」の「魏志倭人伝」に登場する「一支国」の王都であることがわかっています。魏志倭人伝には、当時の倭の国々三〇余りが記載されていますが、国の中心となる王都の所在地が特定されたのは原の辻遺跡が初めてで、とても重要な文化財です。

 発掘調査によって、大陸との交易の拠点となった日本最古の船着き場跡をはじめ、中国の貨幣や銅鏡、朝鮮半島系の土器などが発掘されており、一支国の人々の大陸との交流の歴史を物語っています。

《国防の基地・防人の島》

 七世紀、朝鮮半島では、新羅の勢力が増し、唐と結んで半島の統一を進めていました。半島の南に位置する百済と国交を結んでいた日本は、百済への救援軍を送りましたが、六六三年、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に破れました。そこで大和政権は、大陸からの侵略を防ぐため、国防の前線基地として対馬に朝鮮式の山城「金田城」(『金田城跡』国特別史跡)を築き、警備にあたる防人を置きました。

 「日本書紀」によると、金田城は六六七年に築かれたとあり、険しい山を取り囲むように石垣が築かれ、海からの入口には城戸と呼ばれる城門が作られていました。

《遣唐使の道》

 日本は、飛鳥時代から平安時代にわたり、中国・唐の優れた制度や仏教、文化などを学ぶため、朝廷の使節として、遣唐使を派遣しています。

 七一三年の天皇の命によって報告された「肥前国風土記」には、五島から唐への航路が書かれていますが、この航路は南路といい、東シナ海を直接横断する航路でした。

 六三〇年に遣唐使が始まった当時、遣唐使船は壱岐、対馬を通って朝鮮半島沿いに進む北路を利用していましたが、その後、朝鮮半島との関係が悪化したこともあり、七〇二年からは平戸や五島から南西諸島を通る南島路を、七七七年からは南路を利用するようになりました。

 天台宗を開いた最澄と、真言宗を開いた空海は八〇四年に遣唐使船に乗り、五島を通って中国に渡っています。二人は中国で仏教などの教えを学び、最澄は対馬を通り、空海は五島を通って帰国したと言われています。

 八九四年の遣唐使廃止後も、五島には唐や宋からの商船が度々寄港し、大陸の進んだ文物などがもたらされました。

《元寇・蒙古の襲来》

 一二○六年、チンギス=ハンが興したモンゴル帝国は、最盛期にはアジアと東ヨーロッパにまで勢力を広げましたが、十三世紀後半には、元と4つのハン国に分裂していました。

 一二六○年、元を建国したフビライ=ハンは、漢民族の国家・南宋の征服を狙っていました。南宋は日本との貿易によって潤っていたので、これを攻略するため、元は日本を服属させる必要があり、既に属国としていた高麗を通じて日本に使者を送ってきました。しかし、日本がこれを拒絶したため、元は二度にわたって日本に襲来しました。いわゆる元寇(文永の役・弘安の役)です。

 元と高麗の連合軍が最初に襲来したのは、一二七四年のことで、対馬を荒らし、壱岐を襲い(『文永の役新城古戦場』県史跡)、さらに平戸や鷹島など松浦地方沿岸を襲って、博多湾を攻撃しました。

 一二八一年、元は再び大軍を送り、このときも対馬、壱岐(『弘安の役瀬戸浦古戦場』県史跡)を最初に襲い、次に博多湾へと攻め込みましたが、防塁を築き待ち受けていた日本軍に阻まれ上陸できませんでした。元軍は、一旦壱岐や鷹島へ退き、再度博多湾へ総攻撃をしかけようとしましたが、大暴風雨が起こり、元軍のほとんどは海中に没しました。

 鷹島の海底遺跡からは、元寇の際に持ち込まれたと思われる『鷹島の管軍総把印』(県有形文化財)をはじめ、石の碇や弾丸、陶磁器など、元寇に関係する遺物が引き上げられています。

《秀吉の朝鮮出兵の一拠点》

 一五九〇年、全国統一を完成させた豊臣秀吉は、以前から標榜していた中国・明の征服を実行するため、朝鮮にその先導を求めましたが拒否されたので、朝鮮出兵を企て、肥前名護屋に本営として巨大な城を築くとともに、壱岐に勝本城(『勝本城跡』国史跡)、対馬に清水山城(『清水山城跡』国史跡)を築かせ、朝鮮の釜山城と結ぶ駅城としました。

 朝鮮への出兵は、秀吉の死(一五九八年)によって終息し、この後、朝鮮半島との国交は一時中断しました。

《朝鮮との国交回復》

 秀吉の朝鮮出兵によって途絶えた日朝間の交流ですが、朝鮮との貿易により生きてきた対馬にとって、その国交回復はまさに死活問題でした。対馬の宗氏は、日本軍の朝鮮撤兵の直後から、何度も通交回復を求める使者を派遣しましたが、朝鮮から対馬へ最初の使者が来たのは、一六○二年でした。

 関ヶ原の戦い(一六○○年)で政権を握った徳川家康が、秀吉の強圧外交から近隣国との安定第一方針に切り替えたので、中央政権レベルでの朝鮮との国交回復の希望も伝えられました。

 そして、一六○七年、朝鮮国王の使者一行が江戸幕府の将軍に会うため、日本に送られました。この朝鮮通信使の派遣は、一八一一年まで合計十二回を数えました(『朝鮮国信使絵巻』県有形文化財)。

 鎌倉時代から江戸時代に至る長期にわたって対馬を治めた宗氏は、日朝貿易を一手に担い、両国の友好を取り持つことに貢献し、対馬の発展に尽力しました。居城として築かれた金石城の跡(『金石城跡』国史跡)や、菩提寺である万松院を中心して代々の当主の墓が鎮座する『対馬藩主宗家墓所』(国史跡)などが今も残っています。

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