文禄・慶長の役に際し、豊臣秀吉は朝鮮出兵のための本陣として、肥前国松浦に名護屋城を築いたが、同時に朝鮮半島の釜山城までの駅城として壱岐勝本城、対馬清水山城を築いた。
清水山の頂上に一ノ丸、東の屋根の先端に三ノ丸、その中間の段に二ノ丸と称する三段の曲輪があり、その間も石垣全長約500mが断続する。天正19(1591)年秀吉の朝鮮出兵時、毛利高政が築城したと伝えられてきたが、近年の研究では宗義智を主力として相良長海、高橋直次、筑紫広門らが加勢し築城されたという説も有力となっている。標高206mの一ノ丸は東西約50m、南北約40mの長方形角円で、中央に矢倉の基壇がある。東側正面には門址と桝形があり、西側搦手にも門址があり、山道に通じている。二ノ丸は小さく矢倉がない。三ノ丸は全形が把握し難いが、石垣の出張、門址、石段が遺っている。
文禄・慶長の役関係の遺跡として、また、近世初頭の陣城遺構として、歴史的意義が大きい
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