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長崎県文化財データベース 世界の中の長崎

世界の中の長崎 ~長崎県の海外交流史と文化財~

■西洋への窓

《ヨーロッパ文化との出会い》

 一五四三年、ポルトガル人が初めて日本(種子島)に漂着し鉄砲を伝えたことは有名ですが、長崎県域がヨーロッパの文化と関わることになるのは、その七年度の一五五〇年、ポルトガル商船が平戸に入港してからです。また、同年、鹿児島に滞在中だったフランシスコ・ザビエルも平戸を訪れ、ポルトガル人の彼に対する歓迎ぶりを見た平戸領主の松浦隆信は、キリスト教布教を許しました。

 しかし、キリスト教への改宗の高まりによる反発やポルトガル人との対立が生じ、平戸におけるポルトガル貿易は断絶しました。

 その後、ポルトガル船は、大村純忠の招きにより、一五六二年、大村領の横瀬浦(『南蛮船来航の地』県史跡)へ、一五六五年には福田へと寄港地を変えていきました。一五六七年には、大村氏と同様にポルトガル貿易に強い関心を寄せていた有馬領(島原半島南部)の有馬義貞の要請を受け、口之津(『南蛮船来航の地』県史跡)へ寄港しましたが、大村領内での貿易を望む商人たちの希望により、一五七一年、長崎へと移り、キリシタンのまちづくりが始まります。以後、長崎は貿易港として定着し、交易都市として成長していきました。

《オランダとの交流》

 日本とオランダとの関係は、一六〇〇年、豊後臼杵へのオランダ船来着によって始まりますが、長崎との交流は、やはり平戸からで、一六〇九年にオランダ船が平戸に入港したことに始まります。

 平戸領主の松浦隆信が全面的な支持を約束し、オランダ商館(『平戸和蘭商館跡』国史跡)が建てられたので、平戸は再び貿易港としての賑わいをみせました。

《出島の築造と鎖国 》

 一六三四年、長崎に出島の築造が始まりました。当初の主な目的は、当時、市内に雑居していたポルトガル人を収容し、キリスト教の布教を阻止することでした。翌々年、出島は完成し、ポルトガル商人が移されましたが、鎖国実施のために、ポルトガル人に国外退去が命じられて出島が空き家になると、幕府はオランダ人に出島への移転を命じます。一六四一年には平戸からオランダ商館(『出島和蘭商館跡』国史跡)が移されました。

 その後、出島は開国までの二一八年間、日本の鎖国下において、西洋への唯一の窓口として役割を果たすことになります。

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