文禄・慶長の役に際し、豊臣秀吉は朝鮮出兵のための本陣として、肥前国松浦に名護屋城を築いたが、同時に玄海灘を隔てた壱岐に兵站(へいたん)基地として勝本城を築かせた。
勝本城跡は、壱岐島の最北端に位置し、勝本港を見渡せる城山(標高79m)の山頂にある。風本城・武末城・雨瀬包(あませかね)城ともいう。築城には松浦鎮信(しげのぶ)が主としてこれにあたり、有馬晴信・大村喜前(よしあき)・五島純玄(すみはる)の三氏がこれを支援し、およそ4ヵ月の突貫工事で天正19(1591)年末に完成した。その中心部は「東西36間、南北32間」であったと伝えられる。その後、秀吉の弟秀長の家臣本多因幡守正武が慶長3年(1598)までの7年間入城し、戦役終了後破却された。現在、山頂部には、本丸跡として、北に開口する虎口の枡形が良好に依存し、その左右の石垣も良く旧状を留めている。建物の礎石と思われるものが多く残っている。
文禄・慶長の役関係の遺跡として、また、近世初頭の陣城遺構として、歴史的意義が大きい