島原城跡は、有明海に面し雲仙岳東方の扇状地上に、松倉重政により築かれた近世城郭の跡である。東西約350m、南北約1,200mの長方形状の外郭線内に、南から方形の本丸、二ノ丸、そして三ノ丸御殿を直線上に配置し、その外側に家臣団の屋敷群を置き、外郭に31棟の櫓(やぐら)を規則的に置いた石垣で囲む堅牢な城郭である。寛永14年(1637)に勃発した島原・天草一揆では一揆勢の包囲を撃退している。一揆後に松倉氏が改易され譜代大名の高力(こうりき)氏が入った後、途中宇都宮藩主の戸田氏との交代期を挟みながら深溝(ふこうず)松平家の居城となり、明治維新まで島原藩の政庁として機能した。
本丸には、径最大3mの鏡石(かがみいし)を持つ織豊(しょくほう)系城郭(注1)の様式の石垣と、算木(さんぎ)
積み(注2)を志向する高さ17mの高石垣があり、近世城郭へ至る過渡期の石垣の特徴が見られる。堀が囲む本丸と二ノ丸は、郭内に枡形空間を並置し防御を意識した堅固な構造を持つ。また、外曲輪(そとぐるわ)には、当時の屋敷割が継承され、現在の小早川氏庭園周辺は敷地内の庭園等を通じて城内の水利状況を伝える。
江戸幕府が新規築城を制限した中で築かれた数少ない城郭で、有明海を介して雄藩と接する位置にあるため、幕府も重要視した。江戸時代初期の島原半島や周辺地域との関わりの歴史を伝える重要な遺跡である。
注1)織豊系城郭
織田信長・豊臣秀吉によって確立・普及した城郭のこと。出入り口の構造や、天守・石垣・瓦を用いたつくりなどに共通の特徴がある。
(注2)算木積み
石垣の隅部の積み方で、直方体の石材を用いて、長辺と短辺が互い違いになるように積み上げるもの。