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長崎台場跡 魚見岳台場跡 四郎ヶ島台場跡 女神台場跡

台場跡、火薬庫倉庫等の良好な遺構が残る国指定史跡
長崎台場跡 魚見岳台場跡 四郎ヶ島台場跡 女神台場跡
史跡(国指定) 
よみがなながさきだいばあ とうおみだけだいばあと しろうがしまだいばあと めがみだいばあと
指定年月日昭和61(1986)年1月31日
追加年月日平成26(2014)年3月18日(四郎ヶ島台場跡)、令和2(2020)年3月10日(女神台場跡)
所在地魚見岳台場跡:長崎市戸町5丁目 四郎ヶ島台場跡:長崎市神ノ島町3丁目 女神台場跡:長崎市戸町4
所有者国ほか
最寄り駅バス「魚見山」下車 徒歩10分
ファイル

 長崎台場跡は、江戸時代に海外との交易・情報の窓口であった長崎港を警備するために設けられた台場群である。
 幕府は寛永16(1639)年鎖国令を出すと同時に長崎港の警備を厳重にするため西泊、戸町、大田尾などに台場(古(ふる)台場)を築かせたが、文化5(1808)年のフェートン号事件をうけ、同年新たに女神、神崎などに新台場を構築し、更に文化7(1810)年には増(まし)台場として神崎、高鉾(たかほこ)、長刀(なぎなた)岩、魚見岳に台場を築いている。魚見岳の台場は石火矢22台があった。現在魚見岳台場の遺構は他の台場遺構に比べて台場跡、火薬庫石倉などの遺構がある。
 長崎台場のうち、四郎ヶ島台場跡は、長崎港外の端部、神ノ島地区から西南約200mの海上に位置する、東西約220m、南北約120mの小島である。幕末に至り、長崎警備の強化を図るため、長崎港外(外目(そとめ))の防御の必要を認識した佐賀藩は、嘉永3(1850)年、幕府に申し出て、自領の伊王島・神ノ島に自費による台場の造営を開始した。四郎ヶ島台場は、島内部を掘り抜いて砲台の前面に石や土手で胸壁を築き、海上を埋め立てて神ノ島とつないで嘉永6(1853)年に完成した。築造に際しては、西洋式築城技術を用い、円弧形や稜堡(りょうほ)形の胸壁を採用し、土塁を設置するとともに、150ポンド砲2門をはじめとする洋式大砲の導入を図った点が従来にない特色である。
 女神台場跡は、江戸時代、長崎警備のため長崎港内外に築造された23の台場跡の一つである。承応4(1655)年に築造された古台場(ふるだいば)で、のち文化5(1808)年に増強されて、「御石蔵(おいしくら)」(弾薬庫)や新台場(しんだいば)が設置された。
 平成26年(2014)度から平成27年(2015)度に長崎市が行った発掘調査によれば、沿岸部の古台場(ふるだいば)、及びその上段に位置した新台場(しんだいば)の砲台部分はすでに消滅していたものの、最上段の平場で「御石蔵(おいしくら)」とその石垣、及び石組みの排水溝の存在が明らかとなった。長崎台場跡魚見岳台場跡(文化9(1812)年竣工)、同 四郎ヶ島台場跡(嘉永6(1853)年竣工)に比べて古い遺構となる。
 沿岸部の古台場(ふるだいば)は、現在の国道499号及び海岸部にあたると推測されるが、絵図等によれば明治10年代までには失われ、現在その痕跡は確認できない。一方、その上段に設置された新台場(しんだいば)は、明治12(1879)年に長崎県地方検疫所の設置により掘削され、既に遺構は残されていないものの、傾斜地を切り開いて造成した敷地は新台場(しんだいば)の地形を利用していると考えられる。最上段の「御石蔵(おいしくら)」とともに、新台場(しんだいば)の規模を一体的に捉えることができる点で重要である。

 

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