波佐見町は、16世紀末に陶器生産が開始されて以来、現在に至るまで有田・三川内と並ぶ窯業地として発展してきた。肥前波佐見陶磁器窯跡は、畑ノ原窯跡、 三股青磁(みつのまたせいじ)窯跡、長田山窯跡、中尾上登(うわのぼり)窯跡、永尾本登窯跡の代表的な窯跡の5箇所と、大村藩が窯業指導と管理にあたった皿山役所跡、陶石を採掘した三股砥石川陶石採石場の7箇所からなる。
畑ノ原窯跡は残存長54.4mで、窯室24余りからなる連房式登窯である。17世紀前半から中葉にかけての時期には、国内有数の青磁が生産され、18世紀前半まで生産が続いた。その初期の窯が三股青磁窯跡で、終末期の窯が長田山窯跡である。隣接する三股砥石川陶石採石場跡は位置からみて青磁の生産に伴って操業したものと推定される。波佐見では18世紀以降巨大な窯を築いて日常容器を大量生産し、コストダウンを図るようになり、幕末までその方式は続いた。全長約155m、29室の永尾本登窯跡、全長約160m、33室の中尾上登窯跡はこの時期を代表する窯で国内最大級の規模をもつ。俗に「くらわんか茶碗」と称される安価な食器はこのような生産体制に支えられたものであり、全国各地の庶民に至るまで磁器を普及させた。永尾郷に所在する皿山役所跡は、寛文6(1666)年に大村藩によって設置されて明治3(1870)年まで存続し、運上銀の徴収、製品の検査等波佐見窯の管理中枢の役割を担った。
波佐見窯は、初期の磁器、波佐見青磁と称される独特の優品の青磁、大規模生産による安価な日常容器などを生産しており、大きな歴史的価値を有している。その製品は全国各地に大量に流通しており、近世の陶磁器編年の基礎をなすものであり、近世の社会・経済を知る上で重要な資料でもある。
大きな地図で見る