長崎県本土北部、伊万里湾に浮かぶ鷹島の南岸地域に所在する。13世紀後半(鎌倉時代の終わりごろ)の元寇(弘安の役・1281年)において、暴風雨により数千隻もの元軍の軍船が沈没したと推定される位置に所在する海底遺跡である。
中国産陶磁器や船体材、木製碇(「碇」は「木」に「定」)、武器(てうはうなど)、武具(鉄製冑など)等、約4,000点の遺物が出土している。平成6年(1994)度の神崎港緊急発掘調査では、水深20~22mの海底のシルト層に 食い込んだ状態で大型木製碇(「碇」は「木」に「定」)が原位置を保って検出されている。平成12(2000)~14(2002)年度の神崎港緊急発掘 調査では、剣・矛・鉄製冑・矢束・弓などの武器・武具類、大型の木製碇(「碇」は「木」に「定」)・隔壁板・磚(せん)(レンガ材)などの船舶関連遺物、「王百戸(おうひゃくこ)」銘墨書青磁碗・褐釉(かつゆう)陶器・漆製品・木製品・青銅製品など様々な遺物が出土している。さらに平成23(2011)年度、琉球大学の調査で、元軍の構造がわかる遺物(竜骨と外板が残る船底)が発見された。このような発見は日本で初めての事であり、確認された船体の長さは12mである。
発掘調査によって、海底に元軍の沈没船が遺存し、また積載品の内容から武器をはじめとする各種道具の実態が判明する等、従来、文献・絵画によってしか知られなかった蒙古襲来の具体的様相が明らかとなった。蒙古襲来という日本史上重大な事件を理解する上で欠くことのできない、きわめて重要な遺跡である。
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