平戸市大島村神浦の町並みは、江戸時代初期(17世紀初頭)に形成された漁村集落を起源とするが、江戸前期(17世紀後半頃)に捕鯨の創業を契機として大きく発展した。江戸時代中期(18世紀)の鯨組廃業後も跡地の再開発によって、海側に新たな町並みが成立するなど、漁師のほか商人や職人が多く居住し、漁業と商工業を経済基盤とした港町として発展を続け、豊かな町並みが形成された。
保存地区は、東西約700m、南北約650m、面積約21.2ヘクタールの範囲で、神浦集落と海、河川の水面、周辺の高台に建つ寺社、や墓地を含む範囲である。
中心部は幅約3mの細街路の両側に町家が建ち並ぶ。街路の山側は敷地奥行が浅く、中世末期から近世初頭にかけて成立した敷地であるのに対し、海側は敷地奥行が深く、寛文の鯨組創業による埋め立てによって陸地となり享保の廃業により町家化した敷地である。
地区内に建つ町家の主屋の多くは切妻造桟瓦葺、平入で、前面は一階と二階の柱筋を揃え、腕木庇を付ける。平面は、片方に通り土間、他方に室を並べる。街路の屈曲にあわせて台形の平面が多く、部屋境を食い違いにするなどした巧みな間取りが特徴である。
街路の山側では敷地の奥行がないため主屋のみの住宅が多く、主屋は奥行方向に二室を並べる平面が多い。海側は敷地の奥行があるため、主屋は奥行方向に三室を並べる平面が多く、敷地奥に離れをもつものもある。
特に山側敷地では狭小な敷地を反映して早くから二階を居室として利用し、主屋は比較的軒高が高い。表構えは大正時代まで出入口を含めて、摺上戸とし、その後は引違戸に変化している。
地区内には斜面地を利用するためにつくられた石垣や石段などが遠見番所や天降神社周辺で見られる。地区内各所に残る共同井戸は昭和40(1965)年まで主要な水源として使用され石造の井戸や周囲の石畳がほぼそのまま残されている。
平戸市大島村神浦伝統的建造物群保存地区は、近世から近代にかけての離島の歴史的風致を残すとともに、中世末期から近世初期にかけて成立した漁村集落が鯨組の創業と廃業という出来事を経て近世的な港町に変容していった姿を今日に良く伝えている。
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