長興福寺玄関書院が腐朽して復旧の見込みが立たなかったのでこれを解体し、その跡に三江会所を建てたのは明治14年である。仏殿の背後上段にあった元資福庵の旧材を利用したという。三江というのは江南・浙江・江西の3省で、同地方出身者が明治11年に三江会を設立し、事務所を当寺内に置いた。三江会所はその集会所で、旧唐人屋敷周辺には八閩会所(明治元年設立のち福建会館)、嶺南会所(明治4年設立のち広東会所)等が既にあった。この三江会所は原爆で大破したので撤去され、門のみが遺存。明治16年大雄宝殿再建のため長崎に来た唐匠の手になるもので、門扉の左右は長屋式物置。丸窓を配し他は白壁。門扉上部棟瓦を一段高くして、意匠は簡素清明。門扉前面は黄檗(おうばく)、天井、肘(ひじ)木(き)・虹(こう)梁(りょう)・彫物等純中国建築の細部手法をもつ。
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