享保16年(1731)の建立。軸部は明らかに唐工匠の製作であるが、屋根回りは日本寺院風の様式で、日中工匠の合作かと思われる。平面計画の柱割りは特異で、黄(おう)檗(ばく)宗天王殿の形式に類似する。切組みの唐匠も最初はそれを意図したが地形上左右通り抜けの中門、いわゆる天王殿形式とするのが不可能となり、大雄宝殿と対面する普通の仏堂となったものではなかろうか。天王殿であれば、布(ほ)袋(てい)(弥(み)勒(ろく))と韋(い)駄(だ)天(てん)を中央部背中合わせに安置するが、ここでは中央に観世音(もと禅堂に祀った)向って右に関帝、左に韋駄天を安置する。観音堂・関帝堂・天王堂などと呼ばれたのはそのためで、扁額の「護法蔵」の文字から護法堂という。黄檗天井・柱上部藤(とう)巻(まき)・挿(さし)肘(ひじ)木(き)・扇(おうぎ)垂(だる)木(き)・半(はん)扉(とびら)など、皆黄檗様式の特徴である。柱の沓(くつ)石(いし)の梅花奇獣の浮彫りも、唐工匠の手による見事なものである。
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