大村湾に流入する大上戸(だいじょうご)川左岸、江戸時代の玖(く)島(しま)城下町の北方の長崎街道沿いに位置する本(ほん)経(きょう)寺に所在する近世大名家の墓所である。
初代藩主大村喜(よし)前(あき)は、日本初のキリシタン大名大村純忠(すみただ)の子であるが、徳川幕府のキリスト教禁制の動きにより、藩を存続させるため、日蓮宗に改宗し仏教復興の中核として、大村家の菩提寺「本経寺」を建てた。大村家当主墓塔13基、正側室の墓16基をはじめ、一族・家臣の墓が数多く残る。墓塔の種類は、 笠(かさ)塔婆(とうば)、五輪塔、石(いし) 霊屋(たまや)、宝塔など多様である。3代純信、4代純長の笠塔婆は巨大であり、7代純富(すみひさ)の五輪塔は高さ6.95mと巨大である。
かつてキリシタン大名であった大村家が、江戸幕府の禁教政策の中で造営した墓所であって、仏教信仰をより明確に示そうとする宗教政策であったものと考えられる。多様な様式の墓塔と巨大な規模の墓塔が良好に残っており、我が国近世の歴史を知る上で貴重である。
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