天台宗円融寺は、承応元年(1652)大村藩4代藩主純長が創建。純長は3代藩主大村純信の養子となった。まもなく、純信は若くして亡くなったため、大村藩は後継者を決めていなかったが、将軍家光の裁可によって純長への相続が許された。大村藩はこの恩義に報いるため特に願い出て、徳川家の位牌を祭った。
円融寺は、明治元年廃寺となり、その跡地に戊辰の役の戦没者が祀られ、その後護国神社となった。円融寺の庭園は樹木に覆われ、一時目にすることは出来なくなっていたが、昭和44年に発見され、整備が行われ現在に至っている。庭園は寺域南限の山畔中央の高所に巨石を据えて三尊石を組み、これを中心として高さ8m、幅50mの斜面全般に400余個の自然石を立て、地形の起伏に従って作り出した枯滝、枯流等によって、これらの石組みの配置を抑揚豊かなものに構成している。
左手に七段からなる枯滝を作り、その水落石には白色の石灰岩を用いるなど、全体としてその意匠は華麗で、かつ創意にあふれ、江戸時代初期作庭の特色を見ることができる。
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