浅茅湾に半島状に北に突出した、黒瀬の城山の地に所在する天智6(667)年に築造された山城である。石塁は1350年以上経った今でも比較的良く残り、全長約2.6km、最長49m余り続く石塁は圧巻である。
標高275mの山頂は天然の絶壁で、それに石垣を配した遺構がある。これを起点に、尾根伝いに石塁をめぐらし、三つの谷をかかえる。いわゆる朝鮮式山城の形式をとっている。城は、半島東面に3つの城門を設け、北より一ノ城戸・二ノ城戸・三ノ城戸と通称されている。各城門には、谷間を塞ぐように石積がなされ、水門及び門が設けられていたらしい。城戸開口部の石積は通称三ノ城戸が最も高かったようで、通称一ノ城戸及び通称三ノ城戸には水門が残っている。通称二ノ城戸及び通称三ノ城戸には、門礎石が原位置よりやや動いた形で残っている。各城門間は、自然の岩のない所は、山の自然地形を利用しながら石塁で結ぶのを原則としていたらしい。通称一ノ城戸より北においては、石塁は半島北端に及び、西折して北面のほぼ中間点まで続いている。
平成15(2003)年には、城の南部石塁付近から新たな城門跡が発見され、南門(みなみもん)と名付けられた。
斉明6(660)年、 白村江(はくすきのえ)の戦後、唐・新羅の日本進攻を防ぐため西国防衛の最北端に築かれた重要な山城で遺構は良好に遺存している。
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