第2回の元軍の襲来のいわゆる弘安の役(弘安4年・1281)に際し、壱岐の瀬戸浦(芦辺町)は激戦の地であった。これについては、「龍造寺文書」弘安5(1282)年9月9日肥前守護北条時定書状に、「去年異賊襲来時、7月2日、於壱岐島瀬戸浦令合戦由事、申状并證人起請文令披見畢」とあるのによっても明らかである。瀬戸浦の東方には武藤経資の三男資時の墓といわれるものがある。壱岐の守護としては、今日わずかに文永10(1273)年11月16日当時武藤資能を確認する(「松浦文書」)のみである。武藤(のち少弐)資時はあるいは壱岐守護代であったかともみられるが確認できない。
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