寛永15年(1638)島原の乱平定後、長崎を巡視した松平信綱の命により築かれ、明治元年(1867)まで存続していた警報伝達機関の一つである。
野母日野山(現在の権現山(ごんげんやま))の遠見番所から近郊諸藩への中継烽火台であり、長崎港警備通報体制の中心的役割をはたし、外壁の高さ3.6m、坑口直径4.8mの円堤で下部に3カ所の火入口があり、近くに薪小屋、用水池詰番所の遺構が残っている。正保4年(1647)マカオの使節が来航したときに使用されたが、その後泰平が続き明和元年(1764)廃止。文化5年(1808)フェートン号事件であわてて復活再造。取付道路も修理されたが同12年(1815)勤番を停止。翌年廃止された。
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