英人オルトの長崎渡来と長崎退去の時期は明らかではないが、茶の輸出等の貿易商を営み、自らも製茶業を営んだ。短年月に巨利を博し、この邸宅を建てた。大浦天主堂の工事を請負った天草の小山家に、英人技師の設計とみられるこの家の平面図が1葉伝えられている。建築年代は大浦天主堂と前後する、元治・慶応のころと推定される。
この建物は三方にタスカン式の石造円柱の吹き放しのベランダを設け、中央に切妻屋根のポーチが突出する。南山手のほかの住宅に比べると規模が大きく、軒高も高い。
内部は中廊下式で、正面側に応接室、食堂、寝室、側面側に寝室、予備室があり、各寝室には浴室が附属している。堂々たる偉容で、幕末明治初期洋館遺構中の白眉である。明治12年12月創立の活水女学校が、翌年から同15年まで仮校舎に使用。のちフレデリック・リンガーの長男フレデリック・エラスマス・エドワード・リンガーが昭和15年2月病死するまで、ここに住んだので、リンガー(兄)邸と呼ばれていた。
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