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先史時代
先史時代魏志倭人伝
(3世紀ごろの対馬)


 中国の漢が滅んだ後の三国時代、その中の強国魏(ぎ)の歴史書が魏志で、その中に倭人伝の一書があります。
 その「魏志倭人伝」には、3世紀頃(弥生時代末期)の対馬の様子が記述されています。
 「居る所絶島、方四百余里ばかり、土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(けい)の如し。
 千余戸有り、良田無く、海物を食して自活し船に乗りて南北に市糴す。」
 「市糴す」というのは、「米を買う=交易をする」ことであり、この短い文章の中に対馬の特色がよく描写されています。
 古代から対馬は海洋を利用して大陸や九州本土間を往来し、物や文化の交流のかけ橋としての役割を果たしていました。

古代
古代大和朝廷と対馬
(国に準ずる扱いを受け、対馬国といわれた。)


 大和朝廷が中央政権として国家を統一したのは四世紀の後半です。
 律令制の下では、対馬は国に準ずる扱いを受け、対馬国といわれていました。
 大和朝廷は、大陸経略を盛んに行いました。神功皇后の三韓征伐の伝承をはじめ、史書にも朝鮮出兵の記述があります。
 天智天皇2年(663年)、百済の支援に向かった日本の水軍は、白村江で唐・新羅連合軍と戦って大敗し、朝鮮半島から全面撤退すると、今度は強大な唐や新羅が逆に日本を攻撃する危険が生じました。
 そこで664年、対馬に防人を配置し、さらに667年には対馬は金田城を築きました。
 対馬は古代から常に防衛、侵攻の最前線基地でした。

遣隋使、遣唐使(対馬を経由して大陸へ)

 607年、小野妹子を正使とする遣隋使がはじめて派遣され、その後、遣隋使は4回派遣されましたが、これらは全て対馬を通って朝鮮半島に渡り、そこから黄海を渡って中国に入ったものと思われます。
 その後、唐が興り、630年の第1回遣唐使から669年の第6回遣唐使の頃までは、対馬を経由するコースが採られています。

遣新羅使(万葉集に対馬にかかわる歌が42首)
 新羅からの来朝は前後38回に達し、わが国からの使者は27回を数えることができます。
 万葉集には遣新羅使一行が詠んだ対馬にかかわる歌が42首あると言われていますが、最も代表的なものとして、天平8年(736年)遣新羅大使となった阿倍継麻呂が順風待ちで対馬の浅茅の海で船が停泊していた折に詠んだ歌があります。
百船(もろふね)の泊(は)つる対馬の浅茅山(あさじやま)
時雨の雨に黄葉(もみだ)ひにけり


中世
中世宗氏の入国
(阿比留氏から宗氏の支配へ)


 対馬の中世史は先ず宗氏の始祖の入国で幕が開きます。

 宗氏の始祖は、平知盛あるいは安徳天皇の後えい等諸説がありますが、平安時代以来太宰府の官人であった惟宗(これむね)氏の支族が、12世紀頃、対馬の在庁官人となり、鎌倉時代には対馬国を含む3州2島の守護・地頭だった太宰小弐(武藤)氏の対馬国守護代(地頭代)を兼ね、次第に実権を握り、武士化して宗氏と称しました。
 13世紀中頃には、在地勢力の阿比留氏に代わって島内最大の勢力となりました。

蒙古の襲来(初代当主 宗助国 壮絶な討死)
 
蒙古(元)が中国を統一して日本の朝貢を勧告してきましましたが、日本がこれをはねつけたため、文永11年(1274年)10月総兵力4万人、900隻の大船団をもって対馬を侵略しました。
 宗家初代当主、宗資(助)国はわずか80余騎で勇躍、これを迎え撃ち小茂田浜で奮死しました。
 壮絶な死をとげた資国公の墓所は、700年を経た今日、お胴塚、お首塚として、それぞれ別のところに葬られています。

近世
近世朝鮮の役
(国策に翻弄される対馬)

 
文禄元年(1592年)宗家の意に反して、豊臣秀吉は朝鮮出兵を断行しました。
 宗家19代の義智も、将軍には逆らうことはできず、兵5千をもってその先鋒として従軍しました。
 一時講和が整いましたが、再び慶長2年(1597年)に出兵が行われ、この際も、義智は兵1千人を率いて参戦しました。
 秀吉が死去してこの朝鮮の役は終わりましたが、この戦いは対馬にとって全く好ましくない事変でした。
 すなわち、対馬は疲弊し、その後の国交回復においても、対馬藩は多年に渡って大変な苦労を強いられることとなりました。

朝鮮通信使(江戸時代の国家的一大イベント)
 
慶長8年(1603年)徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府が開かれました。幕府は対馬藩に国交回復を命じ、宗義智の並々ならぬ努力により、慶長12年(1607年)に朝鮮国から日本の国書に対する通信使が来朝しました。
 これをきっかけに慶長条約(己酉約条)が慶長14年(1609年)に締結され、国交回復が成立しました。
 その後、通信使は文化8年(1811年)までに12回来朝し、その都度、対馬藩は江戸までの往復の護衛の任にあたりました。
 朝鮮通信使は、天使以下300人から多い時には500名にも及ぶ大使節団であり、当時の最高の文人・技術者も派遣されていました。
 朝鮮国との交流は貿易や文化に多大な影響を与え、現在でも江戸に至るまでの各地で行列に関連のある行事が残っており、厳原町では、毎年8月に朝鮮通信使行列を再現しているほか、平成7年11月には、全国組織として朝鮮通信使縁地連絡協議会を設立しました。
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