高校生・一般部門 長崎県知事賞  つながる出会いと深まる友情 一般 おりた ほだか  私は、二〇二三年一二月一七日に二〇歳を迎える。私は、生まれつきの障害があり、「小児脳性麻痺」、そして「両上下肢麻痺」という状態で生活してきた。  私は、二〇二ニ年四月一日に人生の新しいスタート地点に立った。それは、大学進学である。社会福祉士になり、当事者目線で障害児・者の支援がしたいと明確な目標を持って進学した。その中で素晴らしい出会いが多くあった。 障害というものを背負って人生を歩む上で、周りの人から受けるサポートというものは必ず必要である。  そんな私にとって大学進学というものは、「社会福祉士を目指して頑張っていこう。」という熱い想い以上に不安な気持ちが上回っていた。大学という場所は、県内外から多くの人達が集まっており、私は、誰一人も知り合いがいない状況であった。 一から作る人間関係の構築を不安視していた。なぜならば、今までの生活の中で、車椅子に乗っているというだけで「この人は話せないのだろう。」という目で世の中に見られていた感覚があったからである。  そんな中、大学入学後一週間オリエンテーションが行われた。この一週間は全く仲間ができずにいた。仲間を作りにくい状況であった事は確かであった。その状況として、オリエンテーションが行われた大講義室の通常座席と車椅子専用座席は 上と下で距離が離れており、この距離の間に大学の先生方の座席もあり、友達作りのコミュニケーションをとる事が困難というものである。また大学内の移動サポートに関しても、大学の先生や職員の方に事前にお願いをする形をとっていたため 仲間づくりの機会を持てずにいた。これからの大学生活への不安は増し、仲間ができないストレスを感じるようになっていた。  そんな思いを抱いていたオリエンテーション最終日に大学に入学して初めての仲間ができた。オリエンテーションプログラム終了後、移動のサポートを大学職員の方から受けるため、講義室で待機していた。そんなとき、一人の学生が私に声をかけてきた。 声をかけてきた理由は、私とその人の共通の知り合いがいるのではないかと、もう一人の学生と話になったからだという。それは人違いだったのだが、理由はどうであれ声をかけてくれた事が嬉しかった。 私は、その瞬間に「大学に入学して初めての仲間を作るチャンスだ。」と考えて勇気を出して、LINE交換をお願いした。ここでようやく仲間を作る事ができた。それまで抱いていた不安がこの一つの出来事で、一気になくなっていく感覚は今でも忘れない。  それからの大学生活は、自分から積極的に声をかけ仲間を作り、つながりを広げようと決めた。「そうしなければ大学生活の四年間を乗り越える事は困難である。」という想いと覚悟からであった。 まず私がつながりを作るキッカケとして考えたのは、講義時に行われるグループディスカッションであった。福祉の講義では、多くの事例検討等がグループで行われ、多くの人とつながれる機会が多いと考えた。 グループ内では、しっかりと私から積極的に発言をしてグループの人達とコミュニケーションをとった。そして、講義後に私からつながりたい意思を相手に伝え、多くの仲間とつながっていった。  次に、徐々につながりができてくると大学内での車椅子移動のサポートを大学の職員の方ではなく、仲間達にお願いするようになった。私は坂道や段差を簡単に動く事が可能な電動車椅子ではなく、あえて坂道や段差など主に屋外で支援が 必要な手動車椅子を使用している。それを使用する事によって、大学内でサポートが必要となる場面が増える。ここで重要視したのは、サポートを通したコミュニケーションである。講義室の座席の距離が通常席と車椅子席は離れており、 自宅から大学までの通学は親の送迎か、福祉タクシーを利用するため、仲間とコミュニケーションをとる時間が 非常に少ない。そのため、サポートを受ける時間を大切にしている。私はこのサポートを一定の人にお願いするのではなく、多くの人にお願いするように意識している。意識する事によって、色んな人との関わりから様々な視点での物事の捉え方や 考え方を学ぶ事ができる。また、コミュニケーションをとる事によって仲間と親しくなることができ、大学で作るつながりに「広さ」と「深さ」を作る事ができる。  そして、感謝する心を常に持ち、仲間に必ず伝える事もまた、大切にしている。サポートを受けるというのは決して当たり前の事ではなく、感謝しても感謝しきれないぐらい有難い事であると認識する必要がある。私はその気持ちを常に持ち、 必ずサポートをしてもらった仲間に「サポートしてくれてありがとう。」と心から感謝を伝える。そうする事で、学内だけではなく、学外で会うなどの友情が深まるキッカケができる。  このように、私は「車椅子」というものを一つのコミュニケーションのツールとし、また、それを自分らしさと捉えている。私なりのつながり方で、多くの人と関わり仲間を増やし、今では多くの素晴らしい仲間達に出会う事ができ、 様々な場面で支えてもらっている。全ては、四月に初めて私に声をかけてくれた二人の学生から始まった出会いの輪である。この二人は今でも私にとって特別な仲間である。  「出会いは人を成長させ、つながりは互いの可能性を広げ、助け合える存在になる。」  これが、私と仲間の出会いの輪である。 高校生・一般部門 長崎県教育委員会教育長賞 広がってゆく多様性 向陽高等学校 1年 よしだ ひろみ 最近、テレビやニュースなどで、よく耳にするLGBTQについて知っていますか。LGBTQとは、同性愛者のレズビアンやゲイ、両性愛者のバイセクシュアル、体と心の性が一致しないトランスジェンダー、心の性や、好きになる性がハッキリしない クエスチョニングの略のことです。例えば、私は生まれもった体の性別は女性ですが、心は女性でも男性でもないクエスチョニングです。  私が、周りの人との異変を感じたのは五歳のときでした。幼稚園ではいつも男の子とばかり遊んで、服装は毎日ズボンやジャージなどのスポーティーな格好が多かったです。どうしてトイレは座ったまましないといけないのか、いつも疑問に思っていたし、 合唱の際は毎回低音パートです。幼稚園の発表会の役決めで「王子様の役をしたい」と言った日がありました。すると、周りの子達から「女の子なのに王子様の役なんて、おかしいよ!!変!!」と批判されました。ショックだった思いを母に伝えると、 「女の子なのにお姫様の役を選ばないあなたがおかしいのよ」と言われました。それがきっかけで「自分は周りの人とは違う普通じゃない人間」と思うようになったのです。小学校に上がると、私はサッカークラブに入りました。 男女混合のサッカークラブだったのですが、所属の女子は、私一人だけでした。そこでまた、違和感を覚えました。中学校に上がるとき、「制服はセーラーじゃなくて学ランが良い」と母に伝えると、「あなたは女の子なの。ちゃんと女の子らしくセーラー服を 着て登校してちょうだい」と否定されたのです。ショックでした。親も自分を受け入れてくれない…。そう感じました。それを境に、登校の時間になるたび、吐いたり、登校拒否の症状を起こしたりするようになったので、 とうとう母は私を受け入れてくれるようになりました。  こうして私は、学校とは別に、NPO法人「さんて」という所に通うことになったのです。「さんて」には他にも様々な利用者さんがいます。身体障害の方、そのためにヘルプマークをつけている方、人と関わるのが苦手な方、 自分の思いが伝わらずにすぐに癇癪を起す方、もちろん、LGBTQに関連するような方もいました。「さんて」の利用者さんは性別も年齢もバラバラです。小学生もいれば、社会人の方もいます。そこで出会ったのがヒカリさん(仮名)という方でした。 ヒカリさんは体は女性で、心は男性のトランスジェンダーです。私も最初はヒカリさんを男性だと思っていました。ヒカリさんは性別適合手術を受けていたからです。ヒカリさんと関わっていく中で、LGBTQやセクシュアルマイノリティについて 世間にはあまり知られていない事を知りました。ヒカリさんも「病気だ」とか「キモイから近づくな」と言われたそうです。私はヒカリさんと似たような体験をしていたのに、私はくじけてばかりいます。それに対し、ヒカリさんはイキイキしています。 そこで疑問に思いました。今まで、周囲からひどい扱いを受けてきたのに、どうしてありのままの自分で堂々としていられるのか気になったのです。すると、ヒカリさんは教えてくれました。「僕みたいなジェンダーはまだまだ少ないけれど、 きっと僕のように苦しんでいる人はどこかにいる。マジョリティの人は、個性を受け入れるのが難しいだけ。人は人。自分は自分だよ。」と。私は、その言葉を聞いてから、自信を持って前を向けるようになりました。人は多数派意見に流されやすく、 少数派意見の尊重ができていない所もあるが、人にも自分にもちゃんと個性があり、それを磨きあげることが大事だ、という事を知ったからです。ヒカリさんとの出会いが、私の人生を変えてくれたのです。ヒカリさんに出会えて良かったと心からそう思えます。  今、私の制服はスラックスで、自分のクラスの女子では一人だけですが、恥ずかしいとは思いません。自分らしく、いつもの私として生活しています。「どうして女の子なのにスカートにしなかったの」と聞かれても「ズボンの方が好きだから」と 軽く受け流すことが多くなりました。最近は女子の制服にスラックス、男子の制服にスカートが導入されている学校も多くなってきました。身近な人に、スカートを履いている男性もいるはずです。その多様性をもっと知ってほしいと、 ヒカリさんの出会いで感じました。私も、ジェンダーのことで悩んだり苦しんだりしている人を支え、背中を押してあげられるような人になりたいと思います。 高校生・一般部門 長崎県社会福祉協議会会長賞 誰もが笑顔に 向陽高等学校 1年 えなみ はな 私には、夢があります。それは、美容師になることです。私は、障がいのある方もない方も、誰もが自分に自信を持ってもらえるきっかけになれる美容師になりたいと思っています。そのために色々と調べ、分かったことが二つあります。  一つ目は、障がいのある方は、美容室へ行くのにとても苦労しているということです。障がいのある方を受け入れてくれる美容室や他人の目を気にせず髪を切ることができる場所、車椅子が必要な方に対する配慮や設備などといった様々な条件が必要でした。 そのような美容室がなかなか見つからず、自分の家で髪を切るという方も多いそうです。私たちは、キレイになりたいと思い美容室に通うのに、世の中には違った不安を抱えながら美容室へ行く人がいるということをどれだけの人が知っているのでしょう。 私は、そのことを知ったときすごく悲しい気持ちになりました。誰だって「キレイ、可愛くなりたい」「カッコよくなりたい」と一度は感じるものです。そんな気持ちを毎回なかったことにしてしまうと、自分に自信が持てなくなってしまうと思います。 そうなったら、毎日の気分はなかなか上がらないのではないでしょうか。そのくらい、髪をキレイにすることは大事なことだと私は思います。  二つ目は、"障がい者カット"という髪型があることです。聞いたことがないという人がほとんどだと思います。私も、今回調べて初めて知りました。この障がい者カットとは、身体障がいを持っておられる方に対して、 介護などをする際に邪魔になってしまうことがないようにと、男女関係なくショートカットや坊主にすることです。本人が本当にショートカットなどにしたいと思ったのなら別ですが、本人の希望の髪型を無視し、勝手なイメージでそのような髪型になる人、 中には、介護してもらう身だからと介護してくれる方に気をつかってしまい、自分が本当にしたい髪型を諦めてしまっている人もいるのではないかと思います。美容師になって、たくさんの人を笑顔にしたいと思っている身として、 これは許せないことだなと思いました。障がいのあるなし関係なく、自分のしたい髪型にできることが当たり前でないといけないと思います。 もともと、私自身も自分に自信がなく、コンプレックスがとても多いです。ですが、髪を切ったとき、キレイに ヘアアレンジができたとき、メイクがうまくできたとき、ネイルなどをしたときは、気分が上がり少し自分に自信が持てる気がします。だからこそ私は、自分に自信がないという方を"私が"キレイ・カッコよくしたいと思いました。「キレイ・可愛くなりたい」 「カッコよくなりたい」と思うのは、性別や年齢、障がいの有無に関係なく自由です。 だから私は、将来、美容師になり自分に自信が持てないなと思っている方々に少しでも笑顔になってもらえるような活動をしていきたいです。 そして、もし自分のお店を持ったら、誰もが通いやすい雰囲気、設備にしたいです。小さな力だとは思いますが、今回紹介した二つのことやまだ私たちの知らないことで悩んでいる方がいない世の中にするため、頑張っていきたいなと思います。 高校生・一般部門 長崎県身体障害者福祉協会連合会会長賞 大切な思いやり 向陽高等学校 1年 かねこ ここみ     私は手話に興味がある。きっかけは地域のボランティアに参加したときのことだ。  私と友達はスタンプラリーとアンケート類配布の仕事を任されていた。入り口付近にスタンバイし、山のように積み上げられたイベントに関する用紙がまとめられた袋をいくつか手に持って扉を見ていた。開始時間の十分ほど前から扉が開き、たくさんの人が 入ってきてイベントは大盛り上がりだった。  「おはようございまーす。よかったらどうぞ。」と笑顔で声を掛けながら袋を配り、順調に袋の山が小さくなっていた。そんなとき、一人の男性が入ってきた。私はそれまで通り近寄って声を掛けた。しかし、その男性は歩くのを止めず前だけを見ていた。 私の声が小さかったんだと思い、もう一度声を掛けてみた。 「こんにちは。よかったらどうぞ。」 結果は同じだった。一瞬、目が合ったように感じたが、男性は足早に行ってしまった。私は悲しかった。そして同時に怒りが込み上げてきた。用紙の入った袋が要らないのなら、「結構です」とか「要らないです」と答えてくれたらいいのにと思ったからだ。  その後も友達と一緒に配布を続けた。質問への対応をしたり、案内をしたりしているうちに男性の事は忘れていた「。ありがとうね。」と言ってくださる人もいて、とても充実しているなと気分も高揚していた。 そんな上機嫌の私の目の前に、数分前に私を無視した男性が映った。数分前は一人だったのに、友達のような人と一緒だった。  私は驚いた。男性が手話で会話をしていたからだ。私は申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、並んで歩く男性を目で追った。男性は私の声が聴こえていなかったんだ。その事に気づいたとき、心が苦しくなった。  これが、私が手話に興味を持つきっかけとなった出来事だ。いつ思い返してみても、私はその男性について何も知らないのに勝手に悲しんだり怒ったりして最低だと思う。正直、私には手話の知識は少したりともなく、 「手話」というものが存在していることしか知らなかった。調べてみると日本には、聴覚障がい者が約三十六万人いて、難聴者は一〇〇〇万人以上いるそうだ。また、コミュニケーション手段は「手話・手話通訳」、「口話」、「筆談」、 「補聴器の使用」などがあり、これらを場所や時に応じて使い分けているという。私たちは一人だと生きていけない。他人との関わりはとても大切だ。その関係性を築くためには「言葉」が必要で、言葉を交わしてはじめて人間関係が築かれていくと私は思う。 しかし、聴覚障がいをもつ人は、言葉を交わす手段が限られてしまう。世の中には視覚障がい、肢体不自由などの障がいをもつ人がいるが、聴覚障がい者はその人の事を知っていない限り聴覚障がいをもっていると気付くことは難しい。 だからボランティアに参加した日の私のように、彼らが気付かないうちに周囲の人から勝手に「無視された」と誤解されてしまう。私の身近には、聴覚障がいをもっている人がいなくて、ボランティアに参加した日に初めて聴覚障がいをもつ男性と出会った。 もし私が耳が聴こえなかったら外へ出かけることは怖くてできないと思う。何かあった時、電話は使えないし、なにより人に直接尋ねることが出来ない。それでも、社会へ出て一生懸命に活動する彼らは耳の聞こえる私よりも勇気がある。  耳が聴こえる私たちは、聴覚障がいを持つ彼らのために何が出来るのだろうか。私は、まずは聴覚障がいを含め、障がいというものを世の中に広めることが一番大切だと思う。今の日本は障がいについての知識が浅く、障害者にとってすごく生きづらいと思う。 周りに手話が出来る人が居なくて助けを必要とするとき、言葉は通じなくとも彼らを心配して彼らを理解しようとする姿勢の人が存在するだけで彼らに安堵感を与えられる。日本は、思いやりの輪を広げる必要がある。  私は、困っている人を見つけたら率先してその人のために行動できる大人になりたい。 高校生・一般部門 長崎県手をつなぐ育成会会長賞 寄り添うことの大切さ 長崎県立諫早農業高等学校 2年 えがわ まな  私の祖母は、重度の難聴で、補聴器をつけて日々生活しています。また、耳だけではなく、左目も見えず不自由な生活をしています。  私は補聴器はどんな役割があるのか、よく理解できていませんでした。祖母に聞くと、補聴器をつけただけで全て聞こえるのではなく、小さくて低い声は聞こえないと言っていました。中学生までの私は、「耳も聞こえないし、目も見えないのはかわいそう。」 など思っていました。祖母と話す時も、相手に合わせて話せていなかったり、聞き取れずに何度も聞き返してくる祖母にイライラしていた自分もいました。しかし、高校に入学し、福祉について専門的に学んでいくにつれ、祖母への対応が少しずつ変わりました。 例えば、相手の気持ちをよく考えて、ゆっくり、はっきりと話すようになったことです。自分よりも相手のことを思って接すると相手も喜んでくれるということに気づきました。相手が喜んでくれると自分も嬉しくなります。 コミュニケーションはとても大事だなと改めて感じました。  ある日突然、祖母が言いました。「店での支払い時に耳が聴こえなく、相手が何と言っているか分からなくて何度も聞き返した時に笑われた。」と。私は、涙目になりながらつぶやいていた祖母の言葉を聞いて、胸を強く打たれました。 耳が聞こえない、目が見えないだけで差別したり、笑ったりするのは違うなと思いました。耳が聞こえなくても、態度やジェスチャーで示したり、目が見えなくても、点字を使ったり、言葉で話して伝えたり色々な表現方法があります。 言葉で十分にコミュニケーションがとれない利用者の思いや感情、訴えを理解するために、表情や視線などに注意を向けることが大切だと思います。これは耳や目が不自由な人だけに対してではなく、障害を持っている方や認知症の方に対しても 大切な配慮だと思います。  私は今年の夏、介護福祉施設やデイサービスを訪れました。その際に、祖母のように耳や目が不自由な人もいれば、障害を持たれている方、体が不自由な方、認知症の方などがいて色々な方と関わることができました。障害の中でも沢山の種類があり、 十分には理解できませんでしたが、接し方などはよく考えて行動することができました。始めの頃は、利用者に対して、変な偏見をもっていました。自分はこのくらいならできるだろうと思っていても、相手にとっては難しかったり、これはできないだろうと思っていたことができたりしていました。見た目で決めつけるのは本当に良くないなと思いました。  介護施設で一番印象に残っていることは、手に障害がある方と積み木をして遊んだことです。手が上手く動かないのに積み木なんてできるのかなと最初は思っていました。しかし、その人は健常者の私よりも上手にできていてビックリしました。手が上手く使えなくても足なら使えると、足を使って行なっていました。健常者は、見た目で決めつけてしまう悪い所があります。私たちはその悪い所を改善していく必要があります。  そのために、その人が持っている病気や、どこが不自由なのかをしっかり理解し、接していくことが大切だと思いました。人はみな、自分や家族、親しい友人や知人の幸せな人生を願って生きています。しかし、生きていく中で何らかの困りごとや生きづらさを抱えることは、だれの生活にも起こることだと思います。だから、偏見や差別をなくし、子どもから高齢者、障害者まで、だれもが社会の一員であり、一人ひとりがかけがえのない存在として尊重されるような地域や社会を作っていく必要があります。私も、言葉でただ言うだけでなく、実際に行動に示していこうと思います。困っている方を見かけたら、声をかけ、その人に合った対応をして、手助けするようなちょっとしたことを少しずつしていくだけでも、社会は変わってくると思いました。 高校生・一般部門 長崎県知的障がい者福祉協会会長賞 心の変化 長崎県立諫早農業高等学校 3年 くばら れいか  私は小学生の頃、登校中ある女の子に話しかけられました。その子は私の一つ上の学年の女の子でした。友達と話していると後ろから、「一緒に行こう」と言われました。当時、私は低学年で人見知りが激しかったこともあり、 何も言えずに立ち去ってしまいました。その子とは仲が良かったわけでもなく、話したことすらありませんでした。それから何度か同じようなことがあり、私はその子の姿が見えると見つからないように逃げるようになっていました。 中学生になり、その子は特別支援学級にいました。そこで初めて何らかの障害を持っているのかもしれないと思いました。体育大会の練習の時、同じクラスの先輩が「こっちだよ」と名前を呼んでサポートしている姿が見えました。その姿を見た時、 私が今までしてきたことが頭に浮かび、心が痛くなりました。小学校の頃は知識もなく、知らない女の子から話しかけられて怖いと思っていました。高校生になった今、帰宅途中の道でその子を見かけることがあります。見かけるたびに思い出し、後悔しています。 この出来事を忘れず、もう二度と同じことを繰り返さないようにしようと思います。  私は小学四年生の時、重度の障害を持った男の子と交流する機会がありました。車いすに乗ったままで、会話はできませんでした。クラス全員で一人ずつ順番にじゃんけんをするというゲームをしました。 普通のじゃんけんとは違ってカードが付いた棒を引いてもらうというやり方でした。私は正直、楽しんでくれているか心配でしたが、笑ってくれていた場面もあり嬉しかったです。重度の障害を持った子とはどう接すればいいかわかりませんでした。 緊張もしたし、不安もたくさんありました。ですが、笑顔で接していれば相手も笑ってくれ、最後は自然と私も笑っていることに気がつきました。どんな時も笑顔は必要なんだと思いました。  私はボランティアで障害者施設を訪問しました。子どもから大人までの様々な障害を持った方が利用しており、私は子どもの担当になりました。福祉を学んでおり、以前の自分とは違いました。利用者さんとの接し方、 障害の特性についても事前に教えていただいていたので理解していました。最初、私は重度の子や、まともに会話ができない子を想像していました。実際に入ってみると、子ども達の方から寄ってきて保育園や学童と変わらないと思いました。 でも、車いすに座ったままの子やヘルメットを被った子など様々な障害を持っていることに気がつきました。実際に接してみて、自分が得た知識や好きなことを話し続ける子や会話が上手くできない子などそれぞれが違っていました。 職員の方の仕事を見ていると保育園とは違った大変さがあることがわかりました。車いすの操作をしたり、食事は常食が食べれない子などの食事介助をしていました。その他にもコミュニケーションで、一人で話し続ける子に対して何も言わないのではなく、 「よく知ってるね」とほめていました。相手を否定せず受容している姿を見て、これはどの場面にも必要だと思いました。障害を持っている子とはどのようなことに気をつければよいのかわからない部分もあるので、もっと深く学びたいなと思いました。  高校生になって福祉を学び、障害について理解が深まるようになりました。障害の特性やコミュニケーションなどについて知識を得ることができました。実際に交流をし、知識がある時とない時では自分の考え方などが異なっていました。 小学生の頃に経験したことは良くなかったこともあったと思います。忘れてしまうのではなく、今後障害のある方に対してどう接するのかをしっかり考え、活かしていこうと思います。障害者施設を訪問したことで、障害のある人もない人も全ての人が 平等に生活する権利があることを改めて感じました。障害を持っている方は苦手なものが少しだけ多いだけで同じ人間です。このことを忘れずに、差別がなくなり住みやすい世の中になっていってほしいです。また、これからも障害について理解を深め、 交流を増やしていきたいと思います。 高校生・一般部門 長崎県精神障害者家族連合会会長賞 家族の当たり前 長崎県立ろう学校 2年 きのした あきら  みなさん、「家族の当たり前」と聞いて何を思い浮かべますか?愛する事、一緒に夕ご飯を食べること、「行ってきます!」と玄関から出ること。それぞれの家には当たり前の日常がある。自分の家族の当たり前を考えてみました。  私の家族は障がいのある私に対して「当たり前」に接してくれています。私は山口県で耳が聞こえない障がいをもって生まれました。生まれたばかりのころ、母方の祖母は障がいのある私を疎ましい存在として扱っていました。 「家に引きこもれ。世の中に出すな。」と言っていたそうです。しかし、両親が何度も何度も説得し祖母もようやく納得したのか歩み寄ってくれました。十七年前は今よりも聴覚障がいに対しての世の中のイメージがあまりよくなかったから恥ずかしいと思い 、そのように言ったのでしょう。中学生の時にこの話を聞いた時に「あんなに優しくて面白いおばあちゃんが…」と驚いたのを覚えています。何度も諦めず説得してくれた両親のおかげで、今では二人で出掛けることもあるくらい祖母とも仲良くなれました。  私の家族は私のために、人工内耳の手術で有名な耳鼻科がある長崎県にわざわざ引っ越しました。当時十二歳の姉は、本当は故郷の友達と別れるのが辛かったり、新しい学校や環境に不安を抱いていたりしていたのに、 今までと変わらず我慢して私に接してくれました。長崎県の中学校に通ってからは、友達になる条件を定めていたそうです。それは、「障がいをもつ弟と仲良くすること、聴覚障がい者としてではなく当たり前の存在として扱うこと。」 私が姉の立場ならそのまま故郷に残りたいと訴えかけたり、引っ越すことになった原因である弟を避けたりしていたと思います。そんな我慢強くて自分以外の人のことを考えられる優しい姉に対して、私は申し訳ない思いとともに感謝の気持ちでいっぱいです。  私が小学校低学年のころからは、母と姉は私と三人で指文字を覚えたり簡単な手話を覚えたりしてコミュニケーションを取ってくれました。しかし、高学年になってからは障がいをもっていることや、外で手話でコミュニケーションをとる姿を 見られるのが恥ずかしくなり、今まで手話や指文字で接してくれていた家族に対して口話で話すようお願いをしました。それからは、家では手話を使わなくなったので、家族は私のためにゆっくり話したり、 わかりやすく大きく口を動かして話しかけたりしてくれました。そのおかげで私も口話で相手に伝えようとする努力ができました。しかし、いい事ばかりではありません。小学生の頃は私の耳の聞こえについて家族に 「なんで自分は聞こえないんだ」「どうせ俺の障がいを理解できないだろう」と自分の気持ちをぶつけたこともありました。家族からは何度も「ごめんね。」と謝られました。あの時は心に余裕がなかったから、強い口調で言い返しました。  障がい者であることや、障がい者として見られるのが嫌だった私でも、今では家族から「人工内耳外してるんだからテレビの音量をゼロにしてよ」と障がいについてもストレートに言い合う関係となっています。 母の知人から「それって当たり前じゃないよ。」と言われるまで私たち家族は当たり前と思って過ごしていました。障がいがあることを否定する事はなく個性の一つとして認めています。個性の一つとして認められるようになったのは 当たり前のように接してくれた家族のおかげだと僕は思っています。普通の家庭とは少し違うけれど、普通のように接し、一緒に聴覚障がいについて勉強してくれた両親。障がいのある私を認めてくれた祖母、当時、中学生ながらも故郷の友達と別れる寂しさを 我慢して長崎に一緒に引っ越してくれた姉などに恵まれているので、私は本当に幸せだなと感じています。  そして、以前の私のように自分の障がいやコンプレックスを自分の個性として認められない立場にある人もいると思います。その時は当たり前だった事や身近にある存在を今一度見つめ直してほしいです。 もし、私がこれから家族を築くことがあるとすれば、家族みんなで協力し「家族の当たり前」をつくっていきたいです 高校生・一般部門 長崎県精神障害者団体連合会代表賞 障がいに対して思うこと 長崎県立諫早農業高等学校 2年 つつみ あいこ   皆さんは「障がい者」という言葉にどのようなイメージを抱きますか。プラスなイメージを抱く人もいればマイナスなイメージを抱く人、何とも思わない人、抱くイメージは人それぞれだと思います。現在の日本や世界では障がいは個性として 誇れるものであり、その意識が当たり前となっています。障がい者の方達が活躍できる場、パラリンピックもあり日本人の方もメダルを獲って大活躍しています。この事も含め私は「障がい者」という言葉はプラスなイメージを抱くものだと思います。 でも今の日本には障がいという言葉を使っていじめがあるのも事実です。このことからどれだけ世界や日本が障がいは個性であると言っても一人一人の意識が変わらないかぎり、「障がい者」という言葉はマイナスなイメージがつきまとってしまうと思います。 私はこの作文を書いている時にそう思いました。でもその時思い出したのが一年生のときに参加したボランティアのことです。  一年の二学期に私は初めてボランティアに参加しました。そのボランティアは諫早農業高校以外にも参加者が多く。主催者の方がこんなに若い人が集まったのは久しぶりだとおっしゃっていました。イベントは障がいを持った方たちの発表で 私たちボランティアがお手伝いをさせていただくというものでした。  私が一番印象に残っている方は、目が見えていらっしゃらないご年配の女性です。まだ会場が開演する前にステージで何度も係の人やヘルパーの方と話し合っていました。杖の位置やいすの位置など細かいことを話し合っていて、イベントをより良くするために 動いている姿は私たちと変わらないなと思って見ていました。今思うと、私たちと変わらないと思っていると考えた時点で差別していたのだと思います。目が見えるのが当たり前、耳が聞こえるのが当たり前、手足があるのが当たり前、 この考えは無意識な差別だったと思います。障がいのある方は私たちが知らないところでたくさん努力しています。その努力を私は一年生のときに参加したボランティアで知ることができました。今、私はヒューマンサービスコースを専攻にして主に 介護を学んでいます。専攻では座学だけでなく実習も多くあります。実習ではアイマスク体験など実際に自分自身がアイマスクをつけて杖を使いながら階段を上がったりして、目が見えない方がどのようにして歩いているか、 どのような気持ちなのかを考えました。実際、体験してみると「私たちが普段歩いている道はこんなに長かった?」とか、「なぜここには手すりが無いんだろう。」と今まで当たり前に歩いたり、階段を上り下りしていたことがこんなにこわく感じるものなのかと 思いました。そして障害をもっている方にとっては生活しづらいところが多いなとも思いました。 私が思っているより障がいを持っている方は身近にいます。私たちができることは障がいをもっている方たちへの理解と少しの助けだと思います。 できることまで助けられるのはおせっかいだし、不快にさせてしまいます。そのためにも理解をすることは一番重要なことではないでしょうか。 高校生・一般部門 長崎県身体障害児しゃ施設協議会会長賞 「幸せ」を増やす 長崎県立諫早農業高等学校 3年 しろの きほ 生一〇〇年時代といわれている今、「幸せ」と思える瞬間はどれくらいあるのだろうか。食事や運動、趣味を楽しんでいる時が「幸せ」と思う人もいれば、生きているだけで「幸せ」と思う人もいるだろう。その「幸せ」と思える生活歴には個人の 「らしさ」が詰まっているのだと感じた。  私は小学四年生の時、手話を基本としてコミュニケーションを行う女性と出会った。当時の私は手話同士で話している方々を見て、すごい、すごいと目を輝やかせ、興味津々だったのを覚えている。小学四年生ながらも、 テレビで手話のことは知っていたため「手話ができない私はどのようにして話すのが正解なのだろうか、小さな頭で真剣に考えた。しかし、正解を見つけ出すことができないまま、手話を必要とする女性と話す機会がきた。 私は手話を間近で見れる嬉しさと、話したいのに話せないという心情が入り乱れ、母と兄に助けを求めてしまった。すると兄は、少しでも理解しようとスマートフォンを開き、検索をかけ、母はわからなくても笑顔で話を聞いていた。 私にもできることはないのかとまた小さな頭で考えたが何も見つからず、静かに見ておこうと決めた。ずっと見ていると、かすかに声が出ているのに気づいた。聞きとろうと思い、耳を澄ましてみたけれど息の方が多かったため、断念した。 けれど、まだ母は手話をせず会話を進めていた。母はわかるまで試行錯誤しながら相手と向き合い、ゆっくりと会話していたのだ。その時、母の対応力のすごさと優しさに心をうたれ、母と一緒に考え会話してみようと思えた。母が女性が行なった手話を真似し、 顔の表情を変えながら、届かない声を出してオウム返しのようにやっていると、女性の顔がパッと明るくなったように感じた。言葉が通じるとニコッと笑ってくださるので、私の心は癒され、ゲームみたいで楽しいと思うことができた。  なぜ、女性は明るい表情に変化したのだろうか。中々伝わらない状況の中、起点となったことは口から話す言葉だった。女性は口の動きを見て理解ができると伝えて下さり、驚いた。女性は口から話す言葉を理解する以外にも、 私たちにもわかりやすいジェスチャーで表現していた。手話を使う人には手話で返さないといけないと思い込んでいた私には、価値観を変えるきっかけになることができた。  女性は話し続ければ笑顔が増えた。そして、他の人にはない表現で私を笑顔にしてくれた。それが女性が持っている「らしさ」なのかと今になって感じることができた。コミュニケーションはいくつものパターンがあり、 普段私たちが使っている言葉では、感じることができないことを手話やジェスチャーで感じることができた。八年経った今でも、この出来事は鮮明に覚えている。 私は将来、一人前の看護師になり病院外でも活躍できる人材になりたいと思っている。 コミュニケーションはどの仕事にも欠かせないものだ。初めは心を開いてくれる人は少ないだろう。心を開いてもらうために、母のような行動ができるようになりたい。  今は、手話の人と対等に話せるようになるのが目標だ。覚えるものが多く、指の形も複雑なのがあり、少し大変だけれどより多くの人とコミュニケーションをとり、「幸せ」と思える瞬間を私が増やしていきたい。 高校生・一般部門 佳作 私と妹 向陽高等学校 1年 おおくぼ せな  私には、知的障害をもった妹がいます。  私の妹は、色素性乾皮症という病気で知的障害の他にも生まれつき視力が悪かったり、耳が聞こえづらくなってきたり、足の筋肉が固まって歩行が困難になったり、日光に当たるとそばかすができたりします。この病気は進行すると、一人で出来ないことが増え、 寝たきりの状態になると言われています。  私の妹は、特別支援学校に通っています。妹は学校であった出来事をよく私たちに教えてくれます。「今日ね、走った。」私たちが、「何周走ったと?」と聞くと「ごー。」と教えてくれます。 妹は学校の授業の中でも特に郊外学習が好きで郊外学習があった日は家に帰ると「ねぇね、聞いて、今日ね、お店行った。」と嬉しそうに教えてくれます。「何を買ったの。」と聞くと、「お菓子とジュース。」と答えてくれます。 運動会の時の様子や学習発表会の様子を見ているとできることが増えていて成長しているなと感じることができとても嬉しいです。  私は小さい頃、妹のお世話をするのが好きでよくお手伝いをしていました。その頃は、お世話をすることも多く一緒にいる時間も長かったです。しかし、私が小学校高学年になると妹のお世話をすることが減っていきました。 理由としては、自分の好きなことをしたいから、めんどくさいからでした。私が中学生になると、妹が私に対してライバル意識を持つようになり少し手助けをしただけでも、「せんで。」と怒られるようになりました。そのため、 私が中学生の間は妹と過ごした時間はすごく短かったと思います。私が高校生になりお世話をする機会が増えてきています。妹の方から「これして。」とお願いされることも増えてきています。しかし、今でも妹は私に対しライバル意識を持っています。 だから、手伝ったり手伝おうとしたりすると怒られます。  妹は現在小学六年生です。最近では病気が進行してきて一人ではできないことが増えてきました。ペットボトルのふたの開け閉めが難しくなったり、歩くのが少しずつ難しくなってきたり、お菓子の袋を開けるのが難しくなったり、 言葉をスムーズに言うことができなくなってきたりしています。だから、お菓子の袋やペットボトルのふたなどは私たちが開けることが多くなったり、遠くに出かけるときは、車椅子を必ず持っていき車椅子で移動することが増えました。 一人で出来ることは少なくなってきましたが、妹は周りの人のことを考えて行動できる子です。だから、誰かが怒っていたり泣いていたりしていると「大丈夫?」や「どうしたの?」と声をかけています。他にも一人でいる子がいると自分から 「一緒に遊ぼう。」や「あっち行こう。」と声をかけています。そういう姿を見ているとすごく優しい子になっているのだなと感じます。  妹と一緒に生活していて大変だと感じる時は、妹の体調が悪い時です。体調が悪いことには割とすぐに気づくことができますが、どこが痛いのかやどこが気持ち悪いのかに気づくのに時間がかかってしまいます。私たちが妹のどこが悪くなったのかを考えている 間、妹は機嫌が悪くなったり、怒ったり、泣いたり、苦しそうにしていたりしてしまいます。そのため、どこが悪いのか気づくのが遅くなってしまうことが多いです。  生まれつき病気があるからといって何も学べない、成長できないというわけではありません。妹も皆さんと同じように学校に行き、国語や算数などの授業を受け、集団生活について学んでいます。言葉を理解することができ、 周りに伝えることもできます。お買い物でお金を出すこともできますし、洗濯物をたたみ、料理やお菓子作りだってすることができます。一人ではできないことが多いですが、私たちが少しだけでも手助けすると妹のできることが一気に増えます。  小さい頃できなかったことがどんどん出来るようになっていく姿を見て私たちは家族全員で喜んでいます。 これから病気がどんどん進行していくと思います。しかし、妹の成長を見守りながら一人では難しいことは手助けしながら私も妹も 成長していきたいと思います。 高校生・一般部門 佳作 障害者について 向陽高等学校 1年 たけだ めい  私には聴覚障害という障害があります。聴覚障害とは、音が聞こえにくい、あるいは聞こえない状態という障害です。私は補聴器と人工内耳をつけて生活していますが、会話はなんとか話せています。 しかし、普通の人と同じレベルくらいまではできていません。  例えば、難しい言葉を使っていると、その言葉の意味が分かっていなかったり言葉の使い方が分からなかったり、また、発音がうまく言えてない時もあります。私は人に自分の耳のことを言うのが怖いです。でも言わないと相手にも分からないので、 自信持って言うようにしています。私は人の言葉が聞き取れなかった時、「もう一回言って」と聞き返すのがとても怖くて、初めの頃は分かったふりをして聞き流すことがありました。めんどくさいと思われないか、「またー」と嫌に思われないか、不安で。 でも、それだと結局、後で困るのは自分なので聞き取れなかった時は、思い切って聞くようにしました。みんな私の耳のことを理解してくれているので、いつも優しく声をかけてくれたり教えてくれたりもう一度言ってくれたりと、 私のことを心配して助けてくれました。そんなみんなと一緒だったので、私も安心して学校生活ができていました。でも高校では、ほとんど知らない人ばかりの中に入っていくので緊張と不安しかありませんでした。私のことを理解してもらえるか、 友達になってもらえるか、聞き返すことを嫌がられないか、でも頑張って自分から話しかけるようにしました。多分、私が聞き返すことがめんどくさいとか思う人もいるかもしれませんが、怖がらず話すようにしようと思います。  世の中にはいろんな障害者がおり、目が見えない人、体が不自由な人、知的障害がある人などがたくさんいるわけです。そんな人たちを見た目で判断し差別しようとしている人がいます。私も、自分に障害がなかったら、そっち側の人間だったかもしれません。 障害の不便さも知らず、障害施設に言語訓練に行くこともなく過ごしていたかもしれません。でも自分が障害者ということで、不便さ、大変さ、周りの目などの怖さなどがわかるようになりました。  人はなぜ障害者に偏見を持つのでしょうか。好きで障害を持って生まれたわけではないのに。障害を持った本人もですが、その家族もつらい思いをすることがあります。親は「ごめんね」と親自身を責めたりします。訓練に通ったり、病院に通ったり補聴器代、 電池代などのお金の負担もあります。健常者が分からないことがたくさんあるのです。  今では、視覚障害者の方には白杖という視覚障害者の目となるものもありますし、聴覚障害者も人工内耳や補聴器などがあります。介助犬という私生活を助けてくれる犬もいます。 昔に比べて障害を持っている方が暮らしやすくはなってきていると思います。 ですが、まだ全てではありません。周囲の人がちゃんと理解し、助け合っていけたら良い世の中になるのではないかと思います。まだまだ自分にもできる、やらなければいけないことがあるかもしれませんが、周囲の人がちゃんと理解するだけでも、 世界は変わると思います。偏見を持たず助け合って良い世界が作れたらいいなと思います。