中学生部門 長崎県知事賞 「みんな同じ」世界へ 純心中学校 1年 たていわ まな 「わぁーわぁーわぁー!」  アーケードの大型ビジョンの近くに、耳をふさいで大きな声を出して歩く人を見ました。周りの人は不思議そうな顔をしてその人を見ていました。その時母が私に、  「あの人は大きい音が苦手なのかな。ヘルプマークを付けてたでしょ。きっと苦手な事があるのだと思うよ。」 と教えてくれました。大きな音や光などが苦手な人がいること、ヘルプマークは、自分ではどうしようもなく困ったときに手を差し伸べてほしいマークだと知りました。  私も色々な音が大きく聞こえて、人の話が聞こえにくくなったり、太陽の光がまぶしく感じたりすることがあります。しかし、もっと困っている人がいることを知り、とても驚きました。  私は、絵を描くことが得意です。しかし、文字を読んだり書いたりすることは苦手です。文章をすらすら読めない事や、漢字がなかなか覚えられないときは、悲しくなります。自分ではがんばっているつもりでも、 漢字を覚えるために書く漢字ノートは、マラソンをするぐらいに疲れてしまいます。  自分にとっては何ともないことでも、苦手で困っている人がいます。無理をすればできるけど、とても疲れる人もいます。  授業中でも、遠くが見えない人がメガネをかけるように、音が気になる人には、イヤーマフを使うことを、認めてほしいと思います。文字を書くことが苦手な人には、パソコンやアイパッドを使うことを、読むことが苦手な人には、 読み上げ機能を使うことを、認めてほしいです。苦手なことは便利な物や機能を利用したり、サポートしたりしてほしいと思います。  メガネの人に「がんばって見れば、遠い文字も見えるよ。」とは言いませんよね。音が大きくて困っている人に、「がんばれば、耐えられるよ。」読めない人に、「読もうとがんばれば、読めるよ。」と言うのではなく、 サポートすることで、一人一人の困り感の少ない世界になると思います。それこそが、「みんな同じ世界」なのだと思います。いろんな人がいます。この人変だな、変わってるなと見るのではなく、何か困り事があるんだろうなと考えてほしいです。 一人一人が認め合うことで、どんなサポートやフォローがあれば出来るか、どうすれば物事がスムーズに進むのかなどを、一緒に考えていけたら良いなと思います。 中学生部門 長崎県教育委員会教育長賞 心のバリアフリー 長崎県立長崎東中学校 3年 しんぐう あい     「奥さんも大変やねぇ」これは買い物帰りの駐車場で車イスの祖父と車イスを移動させようとした祖母が知らないおじさんに遠巻きに言われた一言だった。祖父はがんを患っており、そのがんが骨に転移したことがきっかけで急に車イス生活となってしまった。 祖母の話では、生前の祖父はその日を境に外出を控えるようになったという。  がんが見つかる前の祖父は兄弟達と魚釣りに行ったり大好きな畑仕事をしたりして人生を楽しんでいた。そのような生活が急にできなくなった祖父は落ち込んでいるだろうと思った。もし自分が急に車イスの生活になったら今まで当たり前にできていたことが できなくなり落ち込むと思う。 しかし、私が祖父の家に遊びに行くと祖父は前と同じように笑顔で迎えてくれた。急に祖父の車イス生活のサポートをしなければならなくなった祖母も嫌な顔せずあたたかく迎え入れてくれた。  車イスになってからの祖父は自宅で本をたくさん読むようになり私に色々なことを教えてくれた。週に一回は祖母と二人で図書館などにも行っていたし、きついはずのリハビリも積極的に頑張っていた。 車イスになっても人生を楽しんでいる祖父は自慢の祖父だった。  だからこそ冒頭で述べたように、他人の何気ない一言がきっかけで祖父が車イスでの外出を控えるようになったという話を聞いて悲しくなった。確かに車イスは十三s〜十五sあり祖母が持つのは大変だったと思う。 しかし、祖母は大変な作業であっても、たまに二人で出かけることを楽しみにしていた。同情や哀れみの対象ではなかった。私の母やリハビリの人も祖父をそのような目で見ることはなかった。車イスで生活しているだけであって以前と何も変わらないのだ。  しかし、外へ出れば車イスの人は目を引く。事情を知らない他人に過剰な哀れみの目で見られる。祖母をねぎらおうとして何げなく発せられた冒頭の言葉もまた、周囲の人の自然な反応なのだろう。そのため同情心や哀れみではなく 「祖父がよりよい生活を送れるように」という思いで生活を手伝っている人やいつもどおり会話してくれる人の存在こそが祖父の人生を彩るものだったと思う。  現在、日本には四百万人を超える身体障害者がいて約二百万人が車イスを利用している。「障害者」、「車イス」などの言葉を聞くと「普通の人と違ってかわいそう」「不幸な生活を送っている」などのイメージを持っていて接し方を 健常者と変える人もいると思う。実際、内閣府の調査では、「じろじろ見られたり、悲しがられたりする」ことを体験、見聞きした人は四十・七%、「差別的な言葉を言われたりする」ことを体験、見聞きした人は三十・九%にものぼる。 この結果からも障害者への差別や偏見はまだまだあると思われる。 ヘレンケラーの残した「障害は不便だけれど不幸ではない」という言葉。私の祖父はまさにこの言葉にあてはまる生き方をしていたと思う。障害者だから障害者も周りも不便でかわいそう。 こう思い込む前に、一度考えてみてほしい。自分が障害者の立場になったとき、どう接して欲しいか、どんな言葉をかけてほしいか。私も障害者は「不便でかわいそうな人達」と無意識に思ってしまっていた。障害者の家族になって初めて、 必要なのは同情ではなく、祖父らしい生活ができるように支えることだと気づかされた。  バリアフリー社会の実現という目標が掲げられることがあるが、バリアフリーの第一歩は、相手の立場に立って考えてみることではないか。障害者への偏見が減り障害者と健常者がお互いに支え合える社会になればいいと思う 中学生部門 長崎県社会福祉協議会会長賞 できることとできないこと 純心中学校 1年 うらかわ みゆ  私たちの身近には、障害をもっている人がたくさんいる。障害をもっている人ももっていない人もできることできないことがそれぞれあると思う。その少しの差で起こるのがいじめや誹謗中傷だ。当たり前だと思うが、人を見た目で判断したり、 できないことを馬鹿にしたりすることは、決してしてはいけない。みんなで助け合って、お互いを尊重しなければならないと私は思った。  バスで塾に行く途中、目の見えない障害をもったお兄さんが乗ってきた。私はちょうど、席が空いていなかったので優先席に座っていた。でもまっ先に、他のところへ行って席をゆずった。目の見えないお兄さんはゆずったことに気づいていなかったと思うけど、 とても気持ちが通じ合った気がした。自分のできることを、できない人と協力することで助け合えた気がした。 私の母は、約三年前に足の神経障害になった。母の足はずっとしびれている状態で、つえがないと歩くことができない。 それでも母は家事をすべてこなすのだ。毎日おいしいご飯を作り、毎日洗濯をし、毎日家の掃除もほとんど母がしてくれている。足に障害をもっていることは関係なしに、とても頼れる母だ。そんな母でも、できないことだってある。 これは母に聞いた話だ。ある日、通院するためにつえを持ってバスに乗った。バスは席がほとんどうまっていて、優先席も空いていなかった。つえを持ってゆっくり歩いている母を見れば、席をゆずってくれる心優しい方もいるだろう。 しかし、誰もゆずってくれない。母は結局立って乗ったそうだ。私はそれを聞いて腹立たしくなった。あれだけ人がいて誰もゆずってくれない。悲しかった。もっと気づいてほしい。思いやってほしい。そんな気持ちでいっぱいだった。  目に障害をもっている人、足に障害をもっている人、それ以外にも障害をもっている人もたくさんいると思う。自分のことだけに精一杯にならず、もっと他のことに目を向けてほしい。自分一人だけの力では生きていけないと思う。 全てが上手くいくわけではない。そんな時、誰かの力を借りないと困難は乗り越えられないと思う。自分ができないことを正直に言えない人も中にはいる。それを気づいてあげられる人に私はなりたい。  障害をもっている人ももっていない人も困ることはあると思う。一人一人がそれに気づいて行動し、助け合える世界になってほしい。そして一生懸命頑張れる毎日をみんなが送れるような、そんな社会をつくりあげたい。 そのために日々の学校生活から一人でも多くの人を助けられる人に私はなりたいと思う。   中学生部門 長崎県身体障害者福祉協会連合会会長賞 自分らしくいられる社会 新上五島町立若松中学校 2年 かわむら みのり 「何て?」「もう一回言って」一日一度は耳にする父の声。私の父は右耳七十一デシベル、左耳七十五デシベルの高度難聴者です。高度難聴者とは、七十デシベル以上九十デシベル未満の補聴器なしでは、近くにいる人の話し声を聞き取ることができず、 耳元で大声で話しかけないといけない人のことを指します。こういった人達は補聴器をつけ、普通に仕事をしたり、スポーツをしたりでき、特に大きな問題はありません。ですが、補聴器は日常会話が聞き取れる程度に音を大きくしているため、 補うことのできる音の大きさには限度があります。父に話を聞いてみると、例えば、テレビの音を父が聞こえるレベルまであげると一緒に見ている人がやかましいと感じてしまうだろうし、大きくしたからといってちゃんと聞き分けることができないため不便だ。 補聴器は小さく初対面の人は気づきにくいため、「聞こえているよね」と思わせることに対し、申し訳なさを感じる。と話してくれました。  みなさんは、会話中に聞き取りづらく、何度も尋ね返したりした経験はありますか。その時どんな気持ちになりましたか。父は相手に申し訳ないという気持ちになり、聞こえているフリをすることがあるそうです。私ももし父なら、相手が面倒だなと思ったり 、やっぱりいいや、という気持ちになったりしないよう、聞こえているフリをすると思います。特に、コロナ禍になってからはマスクで顔がおおわれて、うまくコミュニケーションがとれないことが増えました。 私自身も相手が何を伝えようとしているのか分からなくなったことがあります。父の場合、聞き取れなかったことが原因でトラブルの種になってしまうこともあったそうです。  私は、父と暮らしていて、耳が聞こえづらいということは分かってはいますが、何度も聞き返されるのにうんざりしたり、イライラしたりします。だから「もういいよ」と言ったり、とても大きな声でぶっきらぼうに言ったりと 無愛想な態度をとった経験が多くあります。父が悪いわけではないのに。父のような人のために私達ができることはどんなことがあるでしょうか。まず、ゆっくりはっきり話すことです。難聴者にとって早口はとても聞き取りにくく、 理解するまでに時間がかかります。また、話をするとき、相手の口の動きや表情などからも情報を得ているので、正面から話をすることも大切です。そうすることで聞き取りやすくなり、会話も弾みます。次に一度話して聞き返される場合、 別の言葉に言い換えて話すことです。私はこの言葉を貫き通す。と父に対して変な意地を張り、結局何を伝えたかったのか分からなくなってしまったことがあります。例えば、「なのか」を「ななにち」に言い換えるなど、 聞き取りやすい言葉で簡潔に伝えることが重要です。  聴覚障害者は日本人の三百人に一人と遭遇する確率にしてみれば少ないと思いがちですが、もし出会った場合や、身近にいる高齢者とコミュ二ケーションを図ることがあれば意識してみてはどうでしょうか。  父の姿をみていると、どんな人も笑顔で共生できる世の中になってほしいと心から感じます。今は、みんなと違うからといって差別的に見ないような世の中に移り変わっていますが、さらにより住みやすい社会を作りあげていくことが重要です。 私達、健常者と障害者がお互いに理解を深めていくことが、多様性を世の中に浸透させる大きな一歩だと考えます。多様性・人権の尊重が私達の当たり前になることが、私達の生きやすさ、自分らしくいられることにつながります。 一人一人がもう一度、どんな人でも自由に生きていくためにはどうすればいいか考えていきましょう。 中学生部門 長崎県手をつなぐ育成会会長賞 お医者さんのことば 佐々町立佐々中学校 3年 しばやま あきほ  平成二十年五月十五日午後十一時三十分、母は前置胎盤早期剥離で手術室に運び込まれ帝王切開で私を産みました。その時、私は仮死状態で生まれ、急いで蘇生処置が行われました。あの夜、二つの命が消えるかも知れない瀬戸際にあったそうです。  生まれたばかりの小さな体には、呼吸器や点滴などの八本のチューブがつながれていたそうです。初めて私と対面した父は、私の痛々しい姿を見て涙が止まらなかったそうです。赤ちゃんに対して申し訳ない気持ちとか、元気になってほしいという願いや、 大丈夫だろうかという不安が一気に押し寄せてきて、涙となってあふれたそうです。  するとお医者様が、「お父様の涙をみて安心しました。今のお子様の状態を見て、涙を流される人は大丈夫です。決してお子様を見捨てはしません。」と、おっしゃいました。 涙を流しながら、父はお医者様のことばが体の中にしっかりと入っていくのを感じたそうです。  私は生まれてからずっと、未熟児室の保育器の中で生活していました。肺の低形成で自力呼吸も母乳を飲み込むこともできませんでしたので、鼻から酸素を吸入していました。母が毎日届けてくれた母乳は鼻から胃へチューブで入れてもらっていました。  私には「晶(あき)帆(ほ)」という名前がつきました。「あき」の字は「あきらめない」、「ほ」の字には「風を帆にいっぱい受けてぐんぐん前に進んでほしい。」という親の願いからつけられました。  生まれた直後、命の危機にあった私の「命」をあきらめない、呼吸をする力もおっぱいを飲む力も弱かった私の「成長」をあきらめない、たくさんの「あきらめない」を持って私の人生は始まりました。  「赤ちゃんも親の期待に応えようと一生懸命頑張るとよ。」 と言って、父が写真を見せてくれました。  生まれたばかりの私。  目が開いて、何かを見ている私。  酸素吸入はしているけれど、少しふっくらしてきた私。 「でも頑張りすぎると赤ちゃんにもストレスがかかるんだって。」  次に見せてもらった写真には、悲しそうな表情で、どこか遠くを見ている私が写っていました。髪の毛も薄くなっていました。  秋になった頃から、気管切開の話が出るようになりました。両親はセカンドオピニオンを受けに、福岡の病院に行ったりもしました。  そしてついに、平成二十年十二月八日に気管切開の手術を受けることになりました。 気管切開をすると鼻からのチューブは取れ、自力で呼吸ができるようになりますが、ことばがしゃべりづらくなります。  我が子が、「ことばを失う」と考えると、両親のショックは大きかったそうです。  手術は無事終わり、鼻からのチューブが取れた私が両手両足を広げて気持ちよさそうに寝ている写真があります。  お医者様が両親の所に来られて、 「お父さん、お母さん、今日晶帆ちゃんは気管切開してことばが発しづらくなりました。でも、今の内にたくさん声をかけてやってください。そしてたくさん絵本を読んでやってください。晶帆ちゃんの体の中にたくさんことばを蓄えてやってください。 そしたらきっとそのことばを話せるようになります。」と、おっしゃいました。  今日手術をしたばかりで、これから先のことはまだ何も分からないのに、お医者様のことばはしっかりと両親を支えてくれました。両親だけでなく、私の兄の支えになり、一番に私自身の支えとなってくれました。  それから六年後私は抜管し、発声の訓練を受け、人前でもしゃべれるようになりました。 中学生部門 長崎県知的障がい者福祉協会会長賞 温かいふれあい 諫早市立北諫早中学校 2年 あらき けいた  私が小学生の頃、学童で出会った男の子は、会話がままならないときがありました。その頃は特にその子と深く関わることはなかったのですが、避難訓練で、自分が逃げるよりも先に、その子の靴紐を結んであげている女の子を見ました。 その時から、障害を持った人達に対しての接し方が変わっていきました。  今年の六月に職場体験があり、私はホテルを選びました。一緒の班になった三人の中に特別支援学級の子が一人いたので、少し心配な面がありました。一般のお客様や従業員の方々に迷惑をかけてしまわないだろうかと、少し不安だったのです。 しかしそれを払拭するほどの温かさがあり、僕は多くのことを学びました。  一日目には、午前中に暑い中での掃除を行いました。皆汗だくになって疲れ気味。でもその男の子だけは、嫌な顔ひとつせずに頑張っています。少し元気をもらい、自分も頑張ることができました。  ベッドメイキング、アメニティの補充など、やることが少しずつ増えてきて、だんだんと忙しくなってきました。その男の子から、「何をすればいい」と聞かれた時、「ゴミの回収をして。」と言うと、二つ返事ですばやく行ってくれました。 とても仕事熱心なところに少し驚きました。認めてもらえること、ほめてもらえることで、人はまた頑張りたいと思えるんだなあと感じました。  その子が帰り際に言った「楽しかったね」という言葉に、職場体験に関わった人達の深い温もりを感じ、とても胸に響きました。  今、社会全体に、特に学校現場には、偏見やいじめなど多くの問題があります。しかし、どんな障害を持っていたとしても、周りのサポートがあったら必ず乗り越えられる壁でもあります。手を差し伸ばしたら、それ以上の温もりを感じられます。  全員、同じ人間で違う人間なのです。障害という言葉だけの壁に惑わされないで接してみたら、また違う顔を見られるでしょう。  私は、障害を持っている人達についての専門的な知識は持っていません。しかし、偏見を持たず、ありのままを認め合えたら、すばらしいふれあいが待っていると信じています。 中学生部門 長崎県精神障害者家族連合会会長賞 障害者について 純心中学校 2年 いしもと しおり 私がこの作文を書こうと思った理由は、障害者への差別を少しでも減らしたいと思ったからです。  今は障害者への差別は減っているように見えますが、実は裏で陰口を言われていたり、笑われたりしている人がいるのではないかと感じています。  私も障害をもっています。生後半年の頃に治療しているとき気管切開をして、小学一年生まで声が出ませんでした。それが理由で幼稚園の頃、こういう出来事がありました。  ある日、おもちゃが出しっぱなしになっていたので、片づけたほうがいいと思い、そばにいた子に向かっておもちゃを指さしました。しかし、伝わらず気のない返事をされました。 他にも少し喋れるようになったとき、近くにいた子に話しかけに行きましたが、 怖いと言われとても嫌な気持ちになりました。直接差別を受けたり、悪口を言われたりしたことはありませんがこのような経験をしました。  私が経験してきたことをもとにして、自分たちで出来ることを考えました。まずは話を聞くことです。でも無理やり聞くのではなく相手が困っていたら話を聞いてあげましょう。次に相手の障害についての知識を増やすことです。 知識を増やすことでその障害をもっている人との付き合い方や、何か起こったときの対処方法などが分かり、その人だけでなく他にもその障害をもっている人にもすぐ対応できます。そして障害者と向き合うために大切なことがあります。 それは、障害者だからといってかわいそうだとか同情することは、いけないということです。これらのことを意識してみましょう。  私は、幼稚園の頃は声が出せなかったと最初に書きました。声が出ないせいで親しい友達ができませんでした。障害者だからといってその人を避けるのは違うと思います。そこで私はこのような人がもう二度と増えないでほしいと思ったので、 自分たちだけでなくいろんな人と協力してできる工夫を考えました。  一つ目は学校や幼稚園で手話や点字など障害のことについて学ぶ時間をもっと増やす。  二つ目は障害者と交流できる時間を増やす。  三つ目は公共交通機関や観光地、レジャー施設などで、障害者も健常者も楽しめる工夫をする。 この三つを実行してほしいと思いました。  私は障害の作文を書くにあたって、自分が経験したことをもとに、自分たちが障害者の方にできることを見つけてそれを実践し、よりよい世の中に変わるきっかけになってほしいと思いました。 そして、これからは障害者と健常者が楽しく嬉しく過ごせるようになってほしいです。 中学生部門 長崎県精神障害者団体連合会代表賞 障害と人権 純心中学校 1年 すえたけ はな 小学校の総合学習で、障害のある方と一緒に活動する機会がありました。最初は不安でしたが、実際に交流する中で、その方が持つ個性や意欲に触れて、とても感動しました。私たちが普段、当たり前だと思っていることが、障害のある方にとっては 困難なことであったり、努力が必要だということがよく分かりました。それだけに、その方々の頑張りや積極性には大変感銘を受けました。また、障害のある方との交流を通して、私自身も成長することができました。障害のある方がもつ力や能力を見て、 他の人と比べることなく、彼らなりの方法で日常生活を送っていることに感心しました。私たちが当たり前と思っていることが実は個々によって全然違うということを改めて実感することができました。これからは、障害のある方に対して偏見や差別を もつことなく、彼らの困難を理解し、協力することが大切だと思いました。  障害のある方に対して、私たちができることは多くあります。例えば、配りょすることや協力することです。私たちは障害のある方が困らないように気を配り、彼らが安心して生活できるようにできる範囲で手助けすることができます。 また、差別や偏見のない言葉遣いを心がけることも大切です。だれもが平等に尊重される社会を目指すために、私たち一人ひとりが意識して行動することが不可欠です。  私は、この経験を通じて、障害のある方への思いやりや尊重することの大切さを学びました。障がい者と健常者が互いに理解し合い、支え合いながら生きていくことができる共生社会をつくるために、私たち一人ひとりが行動を起こすことが必要です。 私は今後も障害のある方に対して思いやりをもち、共に助け合いながら温かい社会を築いていきたいと思います。障害のある方との交流を通じて、私は多くのことを学びました。 それは、障害をもつ人たちも私たちと同じように個性や力をもっているということです。私たちが当たり前のように思っていることが、実は彼らにとっては困難なこともあるのだということを実感しました。  私たちができることは何かと考えると、まずは配りょすることが大切だと思います。障害のある方が困らないようにできるだけ気を配り、彼らの身近な存在として手助けすることができます。彼らとの交流を通して、 私たちは異なる個性や能力を尊重することの大切さを学びました。  共生社会を実現するためには、私たち一人ひとりの行動が大切です。障害のある方に対して思いやりをもち、彼らとの関わりを大切にすることが求められます。私はこの経験を通じて、障がい者と健常者が互いを理解し合い、 支え合いながら共に生きていける社会を築いていきたいと思います。障害があるからこそ尊重されるべき人権があり、私たちができることがたくさんあるのです。今後も障害のある方に対して思いやりをもち、彼らが安心して生活できる社会を 作りあげるために行動していきたいです。 中学生部門 長崎県身体障害児者施設協議会会長賞 僕が願う世界 諫早市立有喜中学校 1年 てらした しんじ  僕は、この作文を書くにあたって、人権とは何か、考えてみました。インターネットで「人権とは。」と調べてみると、「誰もが生まれながらにして持っている、人間として幸せに生きていくための権利。」とでてきました。  僕が、考える人権とは、「全てのヒトが平等に暮らせること。」だと思います。  先日、学校で療育センターに行く機会があり、障害をもっている子どもたちと、触れ合いました。そこには、いろいろな障害をもった子がいました。僕より年上でも、体が小さい子だったり、声は出せても言葉をしゃべることができない子だったり、 温めても手が冷たい子、歩けない子など僕が会ったことのない子たちばかりでした。その子達と、手遊びや絵本を読み聞かせたり、手作りの楽器で遊んだり、歌を歌ったりして、楽しい時間を一緒に過ごす中で、気づいたことがありました。  それは、しゃべることができなくても、感じたことや思ったことなどの感情を、その子なりの表現のしかたで、相手に伝えることができるということです。  僕の担当の子は、二人いたのですが、一人は、小学一年生で足が不自由で、しゃべることができず、表情があまり変わらない子でした。その子は、引っぱったり、めくったりすると、絵が変わるというような、しかけのある絵本を一緒に読んでいた時、 毎回ページのめくるところを自分で何度も一生懸命にめくっていました。その様子を見て、表情は変わらなくても、その絵本にとても興味があることが伝わってきました。  もう一人は、高校生で重い障害をもっているようで、身長は中学生の僕と同じくらいでベットのようなその子専用の車イスに乗っていました。言葉は話すことはできないが、声を出すことができて、視力はあまりよくないが、 聴力はとてもすぐれているようでした。班長だった僕は、事前にスタッフさんから、その子の好きな遊びなどを教えてもらっていました。スタッフさんの説明によると、不自由な手を動かすと喜ぶということだったので、手遊びを一緒にする時、 僕がその子の手をとり、リズムに乗って手を動かすと、笑顔になり声を出して喜んでくれました。なので、僕がどんどん激しく動かしていくと、その子の笑顔もどんどん増え、どんどん声も大きくなり、とても楽しそうでした。その様子を見て、 言葉にしなくても、そのしぐさで「うれしい。」「楽しい。」という感情がとてもよく伝わってきました。  その子達と触れ合ったことで、体が不自由なだけで、心は私たちと同じだと感じました。  でも、こういう障害のある人達に偏見をもち、差別する人もいます。 今から七年前、「重度障害者には生きる価値がない。」と勝手に決めつけ、知的障害者施設で差別的な考えによって十九人の命を奪い、 二十六人に重軽傷を負わせる悲惨な事件が起きました。この事件を知り、恐怖を感じました。障害をもつ人だってヒトなのに、生きる価値が無いなんてそんなことはないと僕は強く思いました。シンガーソングライターの優里さんは「ビリミリオン」という曲で、 「僕が生きてるこの時間は、百億以上の価値があるでしょう」と歌っています。  僕はその歌を聴いて、ヒト一人一人の命に百億以上の価値があり、障害がある人、無い人に関係なく、ヒトとして幸せに生きていくことができる世界であってほしいと強く願いました。 中学生部門 長崎県福祉保健部部長賞(佳作) 僕の気持ち 諫早市立北諫早中学校 3年 いえなが ゆうき  僕は発達障害です。知的障害もあります。国語と社会が苦手です。あと文字を書くのも苦手です。  また僕はゆっくり話してもらえれば理解できて、スムーズに行動できます。  でも、一度にたくさんの指示があったり、伝え方が速すぎたりすると理解できずにどちらを先にするべきかわからずにスムーズに行動できなくなってしまいます。  先にすることを伝えてもらえれば自分の行動があっているかどうか確認できて安心できますが、分からないと気持ちが不安になってしまいます。間違ってしまうとすぐに不安になってしまいます。それでも気持ちを一生懸命落ち着かせます。  気持ちを落ち着かせる物のほとんどがパズル系です。特にナンプレやロジックなど数字がメインです。それをやれば落ち着かせることができます。  どうか僕の気持ちを少しでもわかっていただきたいです。  でも僕もこれからは自分がしなければいけないことをメモしたりして忘れないようにしたいです。どのような工夫ができるのかは周りの皆に聞きながら、少しずつ成長できたらいいなと思います。  学校では今も先生やクラスの皆が声をかけてくれるので助かっていますが、社会に出たらいろんな人に教えてもらいながらおしごとをがんばれるようにしたいです。僕の事を皆に分かってもらえるとうれしいです。  話したりするのは少し苦手ですが、それでも皆に分かってもらえるようにがんばっていきたいです。 中学生部門 長崎県福祉保健部長賞(佳作) 幸せになる権利 純心中学校 2年 おがわ りこ  私は、障がいがある方もない方もみんなに幸せになる権利があると思う。障がいをもっているから幸せになれない。障がいをもっていないから幸せになれるという考え方は間違っていると思う。  障がいをもっている方は他の人に比べ、少し助けてもらわないといけないだけで、あとは何も変わらない。誰にだってできないことはある。それを一人ではできないから誰かに助けてもらって、一緒にがんばっているだけのこと。 私はそれを見ていると、できないからと諦めてしまっている自分のことが恥ずかしくなる。一人でできないなら助けを求めればいい。助けを求められたら助ければいい。そうやって、人間はみな助け合いながら生活している。 障がいのある、なしで助けるか、助けないかを判断してはならないと私は思う。 私は、視覚障がい者の方を見たことがある。一人で歩いている人も、誰かと一緒に歩いている人も、たくさんの人がいる。何気ない日に、 点字ブロックに立ってしゃべっている人を見て、ちゃんと考えているのかな?と思う。もし視覚障がいの方が困っていたら助けてあげたいと思う。私は小学生の頃、あまり視覚障がい者の方を見ないなと思っていた。中学一年生になったとき、 視覚障がい者のドラマを見た。そのドラマを見た日から、私はよく視覚障がい者の方を目にすることが多くなっていた。なぜだろうと考えたとき、そのドラマを見て、白杖をつかっていることが分かったり、 バスの中から無意識に外を眺めたりしていたからだということに気づいた。意識が変わると、見えていた景色が変わる。考え方が変わる。行動が変わるなど、さまざまなところに変化があった。バスの中でも見かけ、席をゆずったことが何度かあり、 「ありがとう」と言われた。どちらともがいい気持ちになったから、意識が変わって良かったなと思う。  また、授業で聴覚障がい者の方が来てくれた。そして、みんなに手話を教えてくれたり、耳が聞こえなくて不自由なことを話したりしてくれた。私は小学生の頃から、手話に興味があった。だから、手話を教えてもらえて、すごくうれしかった。 小学生の頃に一度手話について調べたり、手話の本を見ながら、手話をしたことがあったので、知っていることもあって、すごくワクワクした。最初は、一文字、一文字を組み合わせて名前を伝えていたけど、漢字によって変えられるということを知り、 もっと知りたいと思った。いろんな人がいるけど、みんな、見た目だけでは、誰も何も変わらないんだ、と改めて感じた。  これから、私はまだまだたくさんの人に出会う。そのときに何かをたずねられるかもしれない。助けを求めたいと思うかもしれない。助けてほしいという気持ちはよく分かる。だから、そんなときは、誰にでもやさしく助けてあげたり、 自分で気づき助けてあげたりして、一人でも多くの人を笑顔にしたいなと思う。