【フォト巡礼】「『原城への道程(みち)』(その5)湯島で談合」

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【フォト巡礼】「『原城への道程(みち)』(その5)湯島で談合」

島原藩と唐津藩天草領の領民は厳しい年貢とキリシタン弾圧に耐え兼ねて蜂起した島原の一揆勢と天草の一揆勢は若干16歳の天草四郎時貞を旗頭にして廃城の原城に立て籠もって幕府の鎮圧軍と戦うこことなった。これに先立って両者(今後、理解し易い為に一揆軍と称することとする)の指導者達は島原半島と天草の中間位置にある有明海上に浮かぶ周囲6キロメートル程の小さな湯島で作戦を打ち合わせている。このことから同島を「談合島」と呼ばれるようになったとされるが、同島では一揆軍の武器も製造されていた。

掲載の写真は有明海上に浮かぶ湯島を撮影した作品で、一揆軍が立て籠もった原城の本丸跡から撮影している。湯島は乱の沈静後は無人島になっていたが、現在では住民凡そ280人で猫凡そ200匹が居て、近年では猫の島として有名になっているようである。

  • 撮影日時:平成29年(2017年)7月15日 午後3時頃
    撮影場所:熊本県上天草市大矢野町
  • 撮影者:池田勉

※写真の著作権は撮影者にあります。著作権法によって認められる場合を除き、写真を利用することはできません。
※撮影者は被写体の人物や所有者に許可を取ったうえで撮影しています。教会堂内の写真撮影は基本的に認められていませんのでご注意ください。

長崎と天草地方のキリスト教関連歴文化遺産群ウェブサイト(おらしょ-こころ旅-)・フォト巡礼
より(毎週金曜日更新)

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