【フォト巡礼】「『原城への道程(みち)』(その4)天草の一揆勢原城へ」

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【フォト巡礼】「『原城への道程(みち)』(その4)天草の一揆勢原城へ」

富岡城は唐津藩寺沢広高所領する飛び地である天草の西端に築いた拠点であるが、唐津との海上交通の利便性からこの地に築城されたと言われている。富岡城は波静かな有明海を挟んで島原半島南部は目と鼻の先にある。同藩主は1633年に死去したが後継の、堅高は先代同様に圧政とキリシタン弾圧は継続していた。一方、天草四郎を旗頭とする天草の一揆勢は富岡城を陥落するに至らず、幕府命の鎮圧軍が迫っていることもあって島原の一揆勢と共に廃城となった原城に立て籠って戦うことになったとされる。

掲載の写真は天草四郎が船出したとされる海岸に建てられた記念碑と十字架を撮影した作品である。紺碧の空に富岡城方面に向けて棚引く雲は、後ろ髪を引かれる思いで原城向けの船に乗り込んだ一揆勢のようにも見える。

  • 撮影日時:平成28年(2016年)11月22日 午後3時半頃
    撮影場所:熊本県天草郡苓北町
  • 撮影者:池田勉

※写真の著作権は撮影者にあります。著作権法によって認められる場合を除き、写真を利用することはできません。
※撮影者は被写体の人物や所有者に許可を取ったうえで撮影しています。教会堂内の写真撮影は基本的に認められていませんのでご注意ください。

長崎と天草地方のキリスト教関連歴文化遺産群ウェブサイト(おらしょ-こころ旅-)・フォト巡礼
より(毎週金曜日更新)

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