【フォト巡礼】「『原城への道程(みち)』(その2)島原の一揆勢島原城を攻撃」

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【フォト巡礼】「『「原城への道程(みち)』(その2)島原の一揆勢島原城を攻撃」

分不相応な五層の島原城を築いた藩主松倉重政は自らの検地で4万石を10万石に引き上げて領民に過酷な年貢を課して厳しい取立てを行なっている。1630年に同藩主は急死し、後継の勝家は先代以上に厳しいキリシタ取締りと過酷な年貢取立てを継続している。折からの凶作で領民は飢え死に寸前になっても圧政の手は緩めない中で、島原半島南部の有馬村で領民がキリシタン回帰の諍いで代官を殺害する事件が起きた。これに端を発して蜂起した半島南部領民は一致団結して寛永14年(1637年)10月に、次々と寺社を焼き払い城下町に放火して島原城を包囲したが、一揆勢は同城を攻略するに至らなかったが同藩内で気勢は拡大して行ったとされる。

掲載の写真は松倉重政が1618年から1624年にかけて築城した島原城を撮影した夜景作品である。この城は明治初期に解体され、昭和39年(1964年)に天守閣と一部の櫓が復元されている。

  • 撮影日時:平成27年(2015年)3月21日 午後7時頃
    撮影場所:島原市城内町
  • 撮影者:池田勉

※写真の著作権は撮影者にあります。著作権法によって認められる場合を除き、写真を利用することはできません。
※撮影者は被写体の人物や所有者に許可を取ったうえで撮影しています。教会堂内の写真撮影は基本的に認められていませんのでご注意ください。

長崎と天草地方のキリスト教関連歴文化遺産群ウェブサイト(おらしょ-こころ旅-)・フォト巡礼
より(毎週金曜日更新)

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