長崎県

Vol. 132 中国 郭麗 (カク レイ)


2017年11月10日更新

皆さん、こんにちは。
長崎県国際交流員の郭です。お元気でいらっしゃいましたか。
時の経つのは速いものですね。気がつけばもう9月に入りました。知らないうちに、長崎に来てすぐ5ヶ月になります。あと7ヶ月すれば中国に戻ります。これから、仕事があまり忙しくないとき、休みを利用し、日本のいろいろなところへ旅行に行って、もっと日本を知ろうと考えています。せっかくですから、後悔しないように(笑)

旅行といえば、長崎は日本で中国に一番近くて、そして話によると直行便で一番速いのは70分しかかからないそうですが、皆様は旅行などで中国へ行かれたことがありますか。
長崎に来てから、「中国へ行ったことがないですが、中国はすごいねと思います。」とか、「中国はなぜあんなに発展しましたか。そして、中国人として、中国の発展についてどう思いますか」とか聞かれることがあります。

国際交流員としてのわたしたちは、真面目に仕事をすると同時に、せっかく日本にいる間に日本の多くのところへ行って日本の先進的なところを学び、帰国後これらの経験を生かすのはもちろん、本当の中国のことを日本人の方々に伝えるのも義務の一つであります。
それで、今日は、筆者個人の経験に基づき、ここ30年以来の中国の変化について簡単に紹介させていただきたいと思います。

30年前の中国

私は文化大革命の直後に中国北部のある小さい村で生まれました。30年前はちょうど私の子供時代に当たります。
そのときの中国はすでに改革開放が開始しましたが、私の物心ついた時から長い間、村の人々はほとんど貧しかったです。
農村はもちろん、中国一といわれた当時の上海も「浦東のタワーや高層ビルは全くなく、浦東はポンポン船で渡る所だった」といいます。

 
浦東開発開放前の陸家嘴の全景(1989年9月撮影)
http://www.gmw.cn/01gmrb/2010-04/15/content_1094301.htm

そして、車どころか、テレビ・冷蔵庫・洗濯機という日本で70年代にすでに普及された三種の神器も贅沢品であり、めったにありませんでした。
映画を見るように、村の人々が大勢で一台のテレビの前に釘付けになり、「一休さん」を見ているのはその時代ならではの風景であり、一生忘れられません。

物質的には貧しかったですから、精神的に大変苦しかったのではないかと思う人がいるかもしれませんが、少なくとも子供であった私は全然そういう感じがありませんでした。
新しくてきれいな服は確かに少なかったですが、食べるものに困った記憶はまずはありません。そして、毎日自分の家で作った野菜や父がきれいな川で獲った魚などを食べていたので、苦しいどころか、とても満足していました。
子供の私たちは楽しかったですが、両親を含めた村の大人の人々も確かに野良仕事などで大変苦労はしていましたが、精神的に非常に苦しんでいるというイメージは特にありません。そして、暇なとき、きれいな川で魚を獲ったり将棋などのゲームをしたりしていてとても楽しかったという印象が残っています。
また、誰かの家に何か手伝う必要があれば、頼まれるまでもなく、みんな進んで手伝ってくれるのが普通でした。

教育の面では、私と同じ世代の人は両親の世代より幸せになり、成績さえよければ進学し続けることができるようになりました。学校に通わない子供があまりいませんでした。
ただし、当時の農村の教育レベルが低くて教育も今ほど重視されていなかったために、ほとんどの子供は中学校まで勉強しましたが、高校に進学することができませんでした。
そして、当時の中国北部の農村では、女の子しかいない家庭はいじめられるのが普通で、女の子への教育もほとんど無視されていたのです。実は、私の実家には子供が姉と私と二人姉妹しかいないのでいじめられたことがあります。そして、「女の子を学校に通わせるより、将来いい結婚相手を見つけて早く結婚させるほうが親にとって楽じゃないか」と両親が村の人々から言われたことが多いです。
しかし、周りの人と違って、父は姉と私に対して教育を受け続けさせてくれました。それは、頭がよくて勤勉で、中学校の入学試験で5つの科目とも満点といういい成績を取ったのに、いろいろな原因で結局進学できなかった父が、その夢を私たち姉妹二人に託していたといえます。

20年前の中国

今から20年前は私が高校から大学に進学した頃にあたります。
そのときの中国は、経済が引き続き発展していて、大都市はもちろん、農村でも人数がそんなに多くないですが一部の人が商売をすることでより豊かになりました。テレビどころか、立派な家を建て、車まで持っている家庭も出てきました。
一方、それに伴って、いろいろな問題も現れてきました。例えば、農村でも貧富の差が徐々に拡大し始めました。お金を持っているから偉そうな顔をする人が出てきました。

高校生の私たちは外の世界はどうなっているかにも関心を持っているのですが、夢中に勉強をするのが何よりだとみんな先を争うように頑張っていました。
高校に入れる人はみんな各地の優秀な学生ですから、勉強する意欲も雰囲気も小学校時代や中学校時代と全然比べ物にはならないのです。すべての人は宿舎に住みます。夜10時になると宿舎は消灯となりますが、廊下の非常灯の下に、1人ずつ学生が立ち、薄暗い中、教科書を読んでいる光景は珍しくないです。そして、消灯後、人に迷惑をかけないように、布団の中で懐中電灯を使って、勉強し続ける人も結構いました。

学生の私たちは学校で一生懸命に勉強していましたが、親たちは重い農業税や私たちの学費を支払うために、必死に頑張っていました。
私たちは親の苦労を目にして、絶対親のようにならないように、一生懸命頑張っていました。受かった大学はそれぞれ違いますが、わたしの高校時代の同級生はほとんど大学に入りました。姉と私も無事にしかもほぼ同時に大学に入学することが出来ました。
その前までは、故郷の村を含めた2000人以上の人口もある大きい「大隊」(いくつかの村からなる中国農村の基本的な管理組織――筆者注)から大学生が2人しか出ていませんでした。私たち姉妹二人ともほぼ同時に大学に入ったことは村の人々を驚かせたらしいです。
その後、姉と私の影響を受けたように、村からまた何人もの大学生が出てきて、いま各分野で活躍しているそうです。

ここ10年の中国

そのとき、私はすでに大学を卒業して上海に出ていました。
中国の改革開放は1978年から開始しましたが、2000年代から加速し、人々の収入が著しく伸びてきたと思われています。
私個人の経験から言えば、そのときから収入が大幅に伸びてきたような感じがします。
そして、姉と私は給料のほとんどを両親に渡し、新しい家を建てました。
村の人々も出稼ぎのチャンスが増え、収入がますます伸びてきました。テレビ・冷蔵庫・洗濯機はもちろん、車を持つ農村の家庭も珍しくなくなりました。

 
山東省膠東半島の農村(2009年2月撮影)
http://ido.3mt.com.cn/Article/200902/picview1314006c33p4.html

農村もこんなに発展してきましたから、中国全体はここ10年でどんなに飛躍的に発展を遂げてきたか窺われるでしょう。
とくに、近年来、「アリババ」、「百度」、「京東」などの「インターネット+」(インターネット関連産業)に関する新興産業の発展や高速鉄道技術の進歩などは、中国の発展に新しい原動力になり、人々の生活に大きな影響をもたらしてきました。
もちろん、経済が飛躍的に発展するにつれて、いろいろな問題も深刻になってきました。例えば、不動産のバブル、交通問題、腐敗問題、環境汚染など、どれも真剣に解決しなければならない大きな問題になっています。

ここ30年で、改革開放を契機に、中国は著しい発展を遂げてきて、人々の生活レベルが大いに上がってきました。これは間違いなくありがたいことです。
もちろん、経済の発展に伴って、腐敗問題をはじめ多くの問題も出てきました。
幸い、一般の中国人のみならず、政府側もこれらの問題を充分に認識し、そして腐敗撲滅、環境規制、都市化、経済・社会構造改革といった運動を行ったり政策を打ち出したりして真剣に対応しています。
それで、中国の経済は確かに昔と比べて最近減速しましたが、私たち中国人はやはり国の発展に大きな期待を持っています。
先日、日本のジェトロが中国ビジネスに従事する日本企業54社に、日本と中国でヒアリング調査を実施したという記事を読んだのですが(ジェトロセンサー9月号)、中国の事業環境については、ヒアリングをしたほぼすべての日本企業が明るい見方を挙げたそうです。「中国のGDP成長率は今後も5-6%台の成長が続き、市場は拡大していく。同時に消費も高度化する」「環境規制が強まれば、自社の強みを出しやすくなる」など、購買力の上昇、環境規制の強化、都市化の政策によって生まれるビジネスチャンスへの期待が大きいという見方があるところから分かるように、中国の発展に期待を持っている外国人も少なくないといえるでしょう。
グローバル時代の今、国の利益はそれぞれ違いますが、国と国の間はお互いにつながっているのはまず間違いはありません。こんな状況の中で、特に隣国同士である中日両国は、手を取り合い協力すればきっとお互いにも大きな利益になるに違いないと信じております。

 

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