ふるさと再発見 第16回
歴史と文化が響き合う 時津町 時津街道の歴史をひもとけば、古くて新しいまちの姿が浮かび上がる。

住宅地に眠る江戸の面影を求めて

 江戸時代、長崎は世界に開かれた唯一の窓口であった。当時、長崎のまちには学問を志す者たちが大勢集まる一方、西洋からやって来た珍しい品々は長崎から全国へと伝わった。それらの人や物が通った道——それが長崎と小倉(こくら)を結ぶ「長崎街道」である。
 この長崎街道に裏街道があったことをご存知だろうか。長崎市内の西坂(にしざか)から浦上(うらかみ)、時津(とぎつ)を経て、彼杵(そのぎ)の海路へいたる「時津街道」(別名「浦上街道」)である。長崎街道に比べて天気が良ければ西坂から彼杵までの旅程を1日短縮できるこの裏街道は、長崎奉行所立山役所入りする江戸幕府用人、文人、商人など多くの人が往来し、賑(にぎ)わったという。
 現在、時津町には大型商業施設や住宅が建ち並び、今も開発が進んでいる。しかし、どこかのんびりとした空気がまち全体を包み込み、暮らしやすさからか、人口は年々増加している。今回はそんな住宅地に囲まれた時津町で江戸時代の面影を探す旅に出た。裏街道には、表街道にはない魅力が眠っているはずだ。

 

かつては大村藩のお殿様もくつろいだ一間

 江戸時代、彼杵港を出た舟は大村(おおむら)湾を渡り、時津港へと着く。現在は美しい公園が整備され、犬の散歩やウォーキングなど、のんびりとした時間を楽しむ人々の姿が見られるが、当時は長崎街道の近道だったことから、時津港周辺は大変な賑わいだったという。
 この港に降り立った人々の中には過酷な運命を背負った人たちもいた。港には「日本二十六聖人上陸の地」と書かれた碑が建っている。1597年2月4日、彼杵港から小舟で大村湾を渡った一行は夜11時頃に時津港へ到着。雪が降る寒い中、空腹と疲労に耐えながら舟の中で最期の夜を過ごしたという。翌日、彼らは自らの処刑場となる西坂へと向かったのである。時津港から望む大村湾はどこまでも穏やかな表情をしている。400年前、彼らはどんな想いでこの波に揺られたのだろうか。
 時津港から街道沿いに歩みを進めると、風情ある佇(たたず)まいの建物に出会った。これは諸大名や幕府役人の休憩、宿泊所として建てられた「茶屋(本陣)跡」。古い石垣や趣(おもむき)のある門はこの地に建てられた1848年当時のままである。門には彫刻が施された懸魚(げぎょ)(妻飾り)も見られ、気品すら感じさせる。
 今回は、時津町民俗資料館の学芸員を務める山下弥生(やましたやよい)さんに同行していただき、特別に建物の内部に入ることができた。1848年に建て替えられたこの建物は、幕末まで茶屋として機能し、その後明治になって民間に払い下げられ、昭和初期には質のいい水が湧(わ)いたことから造り酒屋として使用されていたという。つい最近まで持ち主の方がお住まいだったということもあり、内部は一部現代を感じさせる箇所があるものの、柱や柱に施された釘(くぎ)隠し、床の間や縁側などは充分に当時の面影を残していた。興味深かったのは、床の間の壁が和紙を重ねあわせてできていること。山下さんによれば、「身分の高い人が宿泊する場合などは、側近の者が不測の事態に備えて壁の裏に潜んでいて、いざともなれば壁を蹴(け)破れるように和紙で作っていたのでは…という面白い説もあるんですよ」とのこと。昔は抜け穴もあったというから、この建物にはまだ解き明かされていない秘密があるのかもしれない。
 時津川沿いに進んで、鳥越(とりごえ)橋を渡る。車がギリギリすれ違えるほどの道幅は時津街道の頃のままだそうだ。昔はこの川沿いに8つもの水車小屋があり、豊富な水は周囲の田を潤し、この辺りでは米が作られていたという。

※ 「日本二十六聖人」とは、1597年2月5日、豊臣秀吉の命令によって長崎で処刑された26人のカトリックの司祭、修道士、信徒。

茶屋跡

茶屋の脇には小川が流れる。

時津町民俗資料館
時津町野田郷62 TEL:095-882-0003
さばくさらかし岩

 

怖がる人々を継石坊主は笑っているかもしれない。

 街道沿いからは、時津町で最も有名な名所を望むことができる。それが「継石坊主(つぎいしぼうず)」。別名「鯖(さば)くさらかし岩」と呼ばれる奇岩である。その昔、この岩の下を通りかかった魚売りが今にも落ちそうな岩を見て「落ちてから通ろう」と待っていたが、いつまでも岩は落ちてこず、結局かごの中の鯖を腐らせてしまった…という民話から、こう呼ばれている。
 それにしても、この丸い岩はどこからやってきたのか——。周囲に岩山があるわけでもなく、見れば見るほど不思議である。この奇岩について書かれた古い書物にも人々が恐れおののいたことだけが書かれてある。どうやってこの状態になったかは記されていないため、今もその成り立ちは謎(なぞ)に包まれている。現在、山の裾野(すその)はコンクリートで覆われ、岩そのものにも安全対策が施されているため、恐怖心はそれほどでもないが、江戸時代に描かれた絵を見ると、岩がむき出しで強烈である。鯖を腐らせるほど恐がるのも頷(うなず)ける。
 時津街道を通った人々にもきっと名所として知られていたこの岩だが、昭和の時代にはのんびりとしたエピソードが残っていると山下さんは笑う。「この辺りに住むお年寄りは子どもの頃、肝試しでこの岩に登って遊んだそうです。岩の上に登ると、時津港まで見渡せたそうですよ」。
 最後に時津が港町であることを伝えてくれる場所を訪れた。時津港から海岸線沿いを北へと真っ直ぐ進み、山の中へ分け入ると、そこには数体の恵比(えびす)様が祀(まつ)られていた。風雨にさらされた様子からとても古い時代のものであることが伺える。1列に並んだ恵比須様は鳥居越しに大村湾を望んでいる。鳥居のある場所から察するに、本来は海上からお参りするべきなのだろう。今でも地元のペーロンの漕(こ)ぎ手たちは競漕(きょうそう)の前に舟で訪れ、必勝祈願をするというが、大村湾を行き交う舟に乗った江戸時代の人々もまた、海から見える鳥居に手を合わせ、航海の安全を祈願したことだろう。
 「時津」という地名には「宝物を積んだ船が満ち潮に乗り、沖から吹く風に運ばれてくる港」という意味が含まれているという。この地に暮らす人々の幸せを願って名付けられた港町には、今日も気持ちのいい風が吹いている。

爛鯖巖之図
(長崎歴史文化博物館所蔵)

恵比寿様

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