海外セレブが愛したハイカラ避暑地 UNZEN

雲仙で最も古い湯元ホテルの露天風呂

湯けむりの向こうに歴史あり

 今から約1300年前、雲仙(うんぜん)の歴史は行基(ぎょうき)という1人の僧が寺院を開創(かいそう)したところから始まる。女人禁制の霊山として、多くの修行僧が訪れた雲仙は、最盛期には1000を越える僧房ができ、西の高野山(こうやさん)と呼ばれるほどに栄えた。しかし、その後、キリシタンとの対立で、多くの神社仏閣は破壊されてしまう。そして江戸時代には、キリスト禁教令により、雲仙地獄はキリシタン弾圧の地としてその名を知られることとなる。
 1637年、島原(しまばら)の乱が勃発(ぼっぱつ)。この戦いで島原半島は壊滅的な被害を被った。島原再興のために新しく島原城主となったのが、浜松(はままつ)城主であった高力忠房(こうりきただふさ)であるが、その家臣の中に、雲仙で初めて湯壺(つぼ)を拓(ひら)くことになる加藤善左衛門(かとうぜんざえもん)の姿があった。
 神社仏閣の復興と雲仙の管理管轄を命じられた善左衛門。彼は農作物が育ちにくい雲仙の地にあって、何か産業を興さなければ……と思案する。そうして生まれたのが共同浴場であった。霊山として知られていた雲仙の地には、全国各地から湯治客が訪れたという。
 雲仙の名が海外にまで広まったのは、シーボルトが著書『日本』で「UNZEN・TAKE」とヨーロッパに紹介したのがきっかけだ。その後、明治、大正、昭和初期まで、雲仙は外国人たちの避暑地として脚光を浴びるようになる。
 善左衛門の子孫であり、湯元(ゆもと)ホテルの14代目を務める加藤宗俊(かとうむねとし)さんが、面白いものを展示していると、館内を案内してくださった。時代を感じる古びた帳面には、燕尾服(えんびふく)やシルクハットが描かれている。「雲仙は明治44年、日本初の県営の公園となります。これは、この頃、長崎県から雲仙の旅館やホテルに送られてきたもの。つまり『外国人の方をお迎えする際は、こんな格好で!』という通達ですね」。
 霊山、キリシタン弾圧の地、湯治場——。数奇な運命をたどった雲仙は、こうして近代の訪れとともに、UNZENとして新しい幕を開けたのである。

県からの通達には、なんともいえない微笑ましさを感じる。

雲仙湯守の宿 湯元ホテル
雲仙市小浜町雲仙316 TEL:0957-73-3255

雲仙お山の情報館提供

 雲仙に外国人避暑客が数多く訪れるようになったのは、明治10年頃のこと。大正に入り、長崎と上海を結ぶ日華連絡船が就航すると、その数はさらに増加した。雲仙でひと夏を過ごす——それは、多くの外国人たちの中で流行となり、ステイタスとなっていった。
 長崎港に着いた外国人たちは、茂木(もぎ)街道を歩き、茂木から船で小浜(おばま)へ渡った。小浜で彼らを待ち受けていたのは多くの駕篭(かご)屋である。小浜から雲仙までは約10キロメートル。今でも急カーブの多い山道をなんと彼らは駕篭で上ったのだ。しかも駕篭は「チェアーかご」と呼ばれる外国人仕様。当時、駕篭屋は外国人たちにこう声を掛けたという。「ユーゴー(you go)、アイゴー(I go)、テンセンゴー(tensen go)」。つまり、「10銭で雲仙まで乗せますよ」。
 小浜から雲仙までの道のりは半日がかり。途中にはいくつも休憩所が設けられていた。駕篭を立てて休んだことから「駕立場(かごたてば)」と呼ばれた休憩所が、現在、1ヶ所だけが残っている。そこは地名も当時のまま「駕立場」。彼らはひと休みしながら何を語ったのだろう。
 道が整備されると、人力車が駕篭にとって代わり、ひと夏分の荷物は何頭もの牛の背中に乗せられ、雲仙まで上った。それはまるで大名行列さながら。まさにセレブ様御一行である。
 雲仙に到着した彼らの1日は、だいたいこんな感じだ。午前中はゴルフか山の散策。1度ホテルに戻り、シャワーを浴びておいしいランチを食べたら、昼寝または読書。夕方になると食前酒をたしなみ、夜はドレスアップしてディナータイム。そして最後はダンスパーティーで締めくくる。
 雲仙は明治44年に日本初の県立温泉公園に指定され、大正2年には県営のゴルフ場とテニスコートが開設されている。最盛期には年間3万人もの外国人が訪れた。地元の人々は胸を張ってこう言う。「雲仙はよく西の軽井沢(かるいざわ)と言われますが、雲仙をモデルにしてできたのが軽井沢。正しくは、軽井沢は東の雲仙なんですよ」。
 セレブたちで賑(にぎ)わったゴルフ場やテニス場は今も現役である。

自然と好きなものに囲まれて暮らす小玉さんご夫妻。

(左)ゆやど雲仙新湯ホテル所蔵/(右)雲仙お山の情報館提供

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