ふるさと再発見 国境の島 対馬へ
小茂田浜神社に保管されている鎧兜
島の軍神はいま島人たちに守られている

 国際情勢が緊張するたびにその地理的条件から幾度となく国防の最前線としての役割を果たしてきた対馬(つしま)。時代に翻弄(ほんろう)され続けたこの島は、鎌倉時代から幕末までの約600年間、宗(そう)氏という一族によって統治されてきた。その宗氏の初代資国(すけくに)は現在、島の西側にある「小茂田浜神社(こもだはまじんじゃ)」に祀(まつ)られている。
  1274年10月5日、対馬は元(げん)と高麗(こうらい)の連合軍の襲撃を受ける。いわゆる元寇(げんこう)である。このとき資国は小茂田に上陸した約1000人の軍勢に対し、わずか80余騎を従えて、自ら戦った。その戦いの激しさは、「お首塚」や「お胴塚」としてバラバラに存在する資国の墓が物語っている。
 小茂田浜神社では毎年11月に慰霊の大祭が行われている。この日、地元の人々は資国をはじめ、国難に殉じた人々を鎮魂しようと、鎧(よろい)兜(かぶと)を身に着け武者行列を組む。神社には代々祭りで使われてきた鎧兜が大切に保管されていた。地元の人はこう話す。「対馬の人は皆、資国が島を救ってくれたと思っています。だから祭りの日は近くの小中学校は午後から休み。大人も子どももみんなで感謝の気持ちを表すんですよ」。100年以上も前のものだという鎧兜はすり切れ、錆(さ)びていた。人々が長きに渡って慰霊を続けてきた何よりの証拠だ。
 初代資国の壮絶な死で幕開けした宗氏の苦難と奮闘の歴史。今回は、宗氏が生き抜いてきた道を辿(たど)りながら、知られざる国境の島を旅する。

厳原

万松院にある香炉

歴史を変えた国書偽造には、対馬の存亡を賭けた決断があった

 資国の死から約300年後、19代義智(よしとし)の時代に対馬は再び危機に見舞われることとなる。当時、対馬は朝鮮と友好関係を築いており、対馬の経済は朝鮮との交易によって潤っていた。そこに豊臣秀吉(とよとみひでよし)が朝鮮出兵を掲げ、その先導役を義智に命じたのである。秀吉の鶴の一声で大事な交易相手に戦いを挑む羽目になった義智は、水面下で様々な和平交渉を行ったという。しかし力及ばず朝鮮出兵は実行に移されてしまう。
 このとき秀吉は戦いに備えて現在の厳原(いづはら)町にある清水山(しみずやま)に山城を築かせている。今も清水山の山頂から麓(ふもと)に向かって一の丸、二の丸、三の丸の3つの遺構があると聞き、三の丸へ登った。城跡からは厳原港と市街地が一望でき、その景観は見事。だが、それ以上に目を惹(ひ)くのが積み上げられた石垣である。山頂まで約500メートルに渡って続くという石垣に秀吉の強大な力と、大事な交易相手である朝鮮へ戦いを挑まねばならなかった義智の苦悩を感じる。神霊が宿る山として人々に信仰されていた清水山に城を築いた秀吉は、結局朝鮮出兵に失敗する。

万松院の百雁木(ひゃくがんぎ)

散策中に出会った野生の鹿

 秀吉の死後、政権を握った徳川家康(とくがわいえやす)は朝鮮と友好関係を結ぶことを望んだ。関係修復の役目を命じられたのは、またもや義智であった。しかし、当然のことながら一度戦争を仕掛けられた朝鮮は簡単には承諾してはくれない。朝鮮側は戦いで捕虜となった朝鮮人の送還や、朝鮮王の墓を暴いた犯人の引渡しなど様々な要求を突きつける。中でも最も義智を悩ませたのが「家康が先に国書を送ること」という要求だった。「戦争をしたのは秀吉であって自分ではない」と主張する家康。窮地に陥った義智は、なんと国書を偽造するという奇策に打って出る。露見すれば、切腹どころかお家断絶ともなろうかというこの策は繰り返し行われ、結果、和平交渉は成立。この功績が認められた義智は、対馬藩の初代藩主となるが、義智自身は朝鮮貿易が再開した6年後の1615年、「国書偽造がいつか露見するのではないか…」という大きな不安を抱えながらこの世を去る。
 義智の息子である義成(よしなり)は父の死後、その冥福(めいふく)を願い万松院(ばんしょういん)を建立する。本堂にはひっそりと「三具足(みつぐそく)」が飾られていた。三具足とは、仏菩薩(ぼさつ)に献じるための花瓶、香炉、燭台(しょくだい)の3種類を1組としたもので、これは対馬藩主が代替わりの折りに朝鮮国王から贈られた品だという。義智の奔走は、後代になって見事に花開いたのである。

厳原本川の壁画には朝鮮通信使の行列が描かれている。

厳原のまちを歩けば、朝鮮通信使に出会う

 清水山の麓に鎮座する「厳原八幡宮神社(いづはらはちまんぐうじんじゃ)」は古くから島の人々の崇敬を集めてきた神社であり、今でも多くの人が参拝に訪れる。境内の宝物殿に2代藩主義成が奉納したという「高蒔絵三十六歌仙額(たかまきえさんじゅうろっかせんがく)」が飾られていた。塗料は多少落ちているものの、その美しさから大変高価なものだということがうかがえる。義成がこんなにも立派なものを奉納したのには理由があった。
 義智の死後、国書偽造は義成と対立していた重臣によって、幕府へ暴露されてしまう。義智の不安が命中したのである。幕府を揺るがす大事件となったこの一件は、1635年、将軍家光(いえみつ)直々の裁決により義成は無罪、宗家の追放を企(たくら)んだ重臣は流罪という形で決着した。国書偽造が暴露され、お家断絶を覚悟した義成は何度も八幡様へ足を運び、手を合わせたのだろう。事件が一件落着し、跡継ぎも生まれた義成は、感謝の気持ちを込めて豪華な蒔絵を贈ったのだという。
 この古社には、義智の正室である小西(こにし)マリアも祀られている。義智はキリシタンであるマリアの勧めで洗礼を受けるが、マリアの父である小西行長(こにしゆきなが)が関ヶ原の戦いで敗れると、家康をはばかりマリアと離縁、信仰も捨てた。仕事だけでなく、家庭でも時代に翻弄された義智。しかし彼が払った犠牲は、その後対馬の繁栄へとつながっていく。

小西マリアを祀った今宮若宮神社

350年以上も前のものとは思われない美しさの「高蒔絵三十六歌仙額」。義成の感謝と安堵が伝わってくるようだ。

 1607年、朝鮮から最初の通信使が訪れる。以来、約200年間に渡り、合計12回の朝鮮通信使が日本を訪れている。その交流の歴史は今も続いており、島では毎年「厳原港まつり対馬アリラン祭」が開催され、当時を彷彿させる色鮮やかな衣装をまとった朝鮮通信使行列が行われている。
 厳原のまちにはこの頃の面影が色濃く残っている。大小様々な石が積み上げられた趣ある石垣や、まちなかで見かける朝鮮通信使をモチーフにした壁画など、往時の面影が色濃く残る厳原のまち。時代に振り回されながらも、人々の営みの中に残っていたのは、国を越えた人と人との心のつながりだった。

ガイドの西譲さん
対馬観光物産協会きっての対馬通。
大変分かりやすい説明に深い郷土愛を感じた。
対馬観光物産協会
対馬市厳原町国分1441 TEL. 0920-52-1566

 

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