港町佐世保 軍港としての歴史と、九十九島の魅力を訪ねる
弓張岳展望台から佐世保港を望む

 佐世保市は、海を利用して発展してきた港街である。アメリカ海軍や海上自衛隊の基地がある佐世保港、映画「ラストサムライ」にもその美しい光景が登場した西海国立公園九十九島(くじゅうくしま)がある。
 湾内は水深が深く、外海との出入口が一ヶ所しかない。狭い湾口は島々に隠されるような地形をしており、外洋から船舶群を確認することが難しい。このように軍港として天然の良港である佐世保港は、西海における近代日本の海防の要として利用されてきた。
 九十九島は、湾外から北へ25キロにわたり島々が点在する海域を指し、島の密度は日本一といわれている。九十九とは無数にある島の形容で、実際の島数は208。国内唯一の外洋性多島海の景観は、江戸時代中期から景勝地として知られ、北原白秋(きたはらはくしゅう)や種田山頭火(たねださんとうか)ら多くの詩人俳人たちの心もとらえていた。
 現在では、リゾート地として、シーカヤックやスキューバダイビングなどマリンスポーツのメッカ的存在となっている。また、カキの養殖も盛んでカキ焼きの風景は佐世保の冬の風物詩になっている。
 昔も今も海を背景に時代を歩んできた佐世保市は、近年「軍港」としての機能と「商港」としての機能のすみ分けを図りながら、さらなる発展を目指している。そんな港街・佐世保の新たな魅力を探訪する。

ツアーや見学を通して軍港の歴史を伝える

 海があり山があり、アメリカ海軍と海上自衛隊の基地がある街。佐世保市が発展してきた歴史の背景には、常に戦争という暗い歴史が存在した。
 今日の佐世保市が、人口4000人ほどの寒村から一足飛びで市に昇格したのは明治35年のこと。旧日本海軍の鎮守府開庁以降、10年余りで急成長し市制の歴史が始まった。
 その後、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と皮肉にも戦争のたびに人口がふくらみ、昭和19年には28万7千人(動員学徒を入れると32万人ともいわれている)にも達し、九州で第4の都市となっていたという記録に驚かされる。
 だが、太平洋戦争末期の大空襲により市中心部が焼き払われ、終戦と海軍解体で人口は半減。戦後は佐世保港の商港への転換と、九十九島を中心とした西海国立公園の指定による観光地の基盤整備を図ろうとしたが、朝鮮戦争勃発とともに米軍を中心とした国連軍の朝鮮戦線への前線基地として、再び軍港の機能を担うこととなる。
 日本の西の果てにある小さな村に西の海を守る使命が与えられ、旧海軍時代から今日に至るまで佐世保市の歴史は常に海が関係していたといえるだろう。そんな軍港史に興味を抱き、このほど和文と英文で読める佐世保軍港史を執筆したアメリカ人がいる。米海軍佐世保基地で働く、佐世保市在住20年のフィリップ・イーキンスさんだ。
 「佐世保に赴任する前から日本の歴史や文化にすごく興味を持っていました。実際に暮らしてみると、基地内外に海軍をはじめ、貴重な遺構や古い史跡がたくさん残っていて、それを知ることでますます佐世保が好きになっていきました」。
 彼は佐世保観光コンベンション協会が毎月行っている「海軍さんの港まちツアー」で、アメリカ海軍基地のボランティアガイドも務めている。彼が手がけた本を片手に基地内を案内してもらったが、赤レンガ倉庫をはじめ、基地内には旧海軍時代に建てられた建物が現役で使用されており、時代の生き証人に出会った気分だった。

アメリカ海軍佐世保基地内に残る旧日本海軍が造った赤レンガ倉庫群

フィリップ・イーキンスさん

若き自衛隊員

 基地のそばにある海上自衛隊佐世保史料館「セイルタワー」には、旧海軍士官の集会所だった佐世保水交社の一部を修復保存してあり、現在に至る海上防衛の歴史を学ぶことができる。この日は倉島岸壁に繋留(けいりゅう)している護衛艦にも乗船させていただき、日本の海を守る男たちの姿を見た。4年ほど前からは毎週土日及び祝日(9時~11時・13時~15時半の1日2回)に一般公開しており、5月の連休中には1日に約1500人もの見学者があったそうだ。
 あらためて郷土の歴史を振り返ると、佐世保市の歴史は軍港としての機能を抜いては語れない。難しい問題だが、これからの未来、この港が平和の防波堤になってほしいと願いたい。

(財)佐世保観光コンベンション協会
佐世保市三浦町21-1(JR佐世保駅構内)TEL.0956-23-3369
海上自衛隊佐世保史料館(セイルタワー)
佐世保市上町8-1 TEL.0956-22-3040
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