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野崎島は五島列島の北端に近い小値賀島の東方に位置し、中道島の最北端浦和崎鼻からは浦和崎瀬戸を介して1kmと離れていない。小値賀島、野崎島はかつて平戸藩に統治されていた時期があり、明治に入ってからの地域再編により現在は宇久島を加えた3島が北松浦郡となり中道島から南へ福江島までの各島が南松浦郡となった。野輪島は小値賀町の行政区域に人っており、交通も小値賀島からの渡船によっている。小値賀島が比較的平坦地が多いのに対し、野崎島は急峻な山地で平坦地が少なく、長期にわたり無人島であった。
かつて野崎島には野首と瀬戸脇(船森)の二つのキリシタン部落があり、最初に野首に定住したキリシタンは、寛政9年(1797)から始まる大村領外海地方から五島へ移住した人達の内の2家族が最終的に野首に住み着いたものと言われている。また、瀬戸脇に定住したキリシタンは、大村の海岸で明日処刑されるという3人のキリシタンを小値賀町の船問屋が同情して小値賀に連れ帰り、人目を避けて瀬戸脇に移住させたものと言われている。
慶応元年(1865)大浦天主堂に於ける信徒発見の後、野崎島の潜伏キリシタン達もその翌年には大浦天主堂の神父達との連絡もとれ、慶応3年には6人が大浦天主堂にて洗礼を受けたりしている。しかし復帰の喜びもつかの間のことで、間もなく小値賀の役人の知る所となり、明治2年10月には野首で8戸、瀬戸脇で7戸の約50人の住民全部が小値賀島に集められ、やがて平戸に連行されて改宗の責め苦に会うことになる。相次ぐ拷問に耐えかねて翌年正月揃って改宗を申し出て帰島したところ、今度は家は荒らされ家財は何一つ残って居らず、結局迫害から開放されたのは明治6年(1873)2月の高札撤去後であった(★1)。
信仰の喜びは得たものの貧困が続く両部落で漸く木造の天主堂が出来るのは更に10年近く経過した明治15年(1882)頃であった。瀬戸脇では最後まで木造天主堂のままであったが、野首ではその後本格的天主堂建設に立ち上がり、明治40年(1907)に当時の信徒18戸が結束して、中田藤吉神父と大崎八重神父の指導を得て鉄川与助に設計・施工を依頼し、念願の煉瓦造天主堂の建設に着手した。煉瓦等は船で運んだが木材は島の南端近くから大半を切り出したと言われ、ここでも信者達の衣食を削っての資金づくりと労力奉仕が伝えられている。工事が完成に近づいた時、住民の生活を見ていた工人の一部には「工事金の三千円か本当に支払われるのか」心配していたとの逸話さえ残っている。一方鉄川与助にとっては自らの設計・施工による煉瓦迫教会堂建築の最初のものであった。
野首教会堂は明治41年(1908)10月に完成し、同年10月25日にクザン司教により祝別された。建物は煉瓦造、単層屋根構成瓦葺きで、付設する鐘塔は持たないものの正面全面が玄関部となっており、主廊幅に相当する部分を前面に張り出させて正面外観に変化を持たせている。正立面は二層に分かれ、上層には二連の尖頭アーチ窓を設け、その間に同様のアーチ額縁を置いて中に「天主堂」の文字を入れている。二連の尖頭アーチ窓にははめ殺しのガラリが付されている。下層には突出した正面とその左右に3個の尖頭アーチによる開口出入口があり、吹き放ちの玄関部を構成すると共に、会堂部へ連ずる正面の両内開き板戸及び左右の片内開き板戸に対応している。正面に突出した柱形の頂部には特徴のある胸壁様の装飾物を置き、屋根棟頂部にも同様の装飾物を置いた上に十字架を置く。なお正面両脇の柱形の頂部にはこれも特徴のある植物様装飾物が置かれている。
会堂部左右側面は上部尖頭形作内開き縦長窓が各4個配され、脇出入口は設けていない。内部平面は三廊式で内陣部には多角形平面をなす主祭壇と左右脇祭壇を有する。床面は会堂部は縦板張りで主廊部の中央部分に寄木張りがなされているほか、内陣部は寄木張りによるなど仕上げを変化させている。主祭壇上部左右には上部尖頭アーチ形縦長窓が置かれ、祭壇に彩りを添えている。
主廊幅(N)は13.0尺、側廊幅(I)は6.5尺、列柱間隔は8.3尺(★2)で、N/I =2.0となり、この数値はほば同時期に建設された木造の冷水教会堂、煉瓦造の堂崎天主堂などと同じである。内部列柱は円柱で、八角形の上に円形を置いた台座と植物模様を刻した柱頭を有する。天井は漆喰仕上げ4分割リブ・ヴォールト天井で全てのアーチは尖頭形であり、下地には竹小舞が用いられている。
内部立面構成はいわゆる第。群で、全てのリブは第一柱頭を起点としている。これは木造の鯛ノ浦、冷水の各教会堂と同様であるが、煉瓦造教会堂では唯一のものである。これまで外国人神父の設計指導により各地の教会堂は建設されてきたが、明治40年代初頭に至り鉄川与助という傑出した日本人工人を得て、初めて自らの設計で煉瓦造教会堂を建設していった最初の遺構として、また木造教会堂の流れを煉瓦造に取り人れてゆく移行期の遺構としてこの建物は貴重なものである。
この教会堂にはもう一つ大きな歴史的変遷がある。それは戦後のことであるが、終戦後34戸あった瀬戸脇部落は昭和40年には13戸80人となり、翌年4月には全世帯が小値賀島に集団移住した。野首でも昭和25年に28戸171人いた住民が昭和45年には6戸28人にまで激減し、遂に昭和46年3月31目に全員が福岡市や北九州方面へ移住してしまった。その結果、野崎島には信徒は一人も居なくなり、この地に信仰の灯は消えたのである。切支丹開放まで数十年、潜伏して信仰を守り続け、その後1世紀にわたり信仰の灯をともし続けた信徒達も、高度経済成長下での生活を守るために、一棟の教会堂建物を残してこの地を立ち去らねばならなかったのである。その後この建物は荒廃していたが、昭和63年11月に長崎大司教区から小値賀町に寄贈され、大修復の後平成元年3月20日には長崎県指定有形文化財に指定された。
(★1)太田静六「長崎の天主堂と九州・山口の西洋館」(理工図書、昭和57年7月)
(★2「長崎県建造物復元記録図報告書(洋館・教会堂)」(長崎県教育委員会、昭和63年3月)
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