長崎県のすがた

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沿革

現在の長崎県は、明治維新までは幕府直轄地としての天領と、佐賀、大村、島原、平戸、福江、厳原の諸藩に分かれていた。

慶応4年2月長崎裁判所が幕府直轄地に設置されたが、同年5月名称を長崎府と改め、さらに翌明治2年6月版籍奉還の断行によって各藩主を藩知事とし、同時に長崎府を長崎県と改称した。

次いで同4年7月廃藩置県によって諸藩にそれぞれ県が置かれたが、同年11月厳原県を除く5県が統合されて、ここに新たな長崎県が成立した。

一方、厳原県は伊万里県に併合されたが、伊万里県の佐賀県への復帰に伴ない、同5年8月長崎県の所管となった。

これよりさき佐賀藩領であった高来郡の一部(諫早領の北高来郡および南高来郡の神代)、彼杵郡の一部(深堀領)は、明治5年1月伊万里県から分離して長崎県の管轄となった。

その後、明治9年4月佐賀県が廃止され、三潴県(みずま)に合併されたが、これに伴い明治9年5月三潴(みずま)県所管の杵島郡、松浦郡(唐津)の一部を長崎県の管轄に移し、同年6月には藤津郡も長崎県に移管した。さらに、同年8月になると三潴(みずま)県が廃止され、筑後地方を福岡県に、肥前の国に属する旧佐賀県全部を長崎県に移管した。

明治9年8月には、旧佐賀県は全部長崎県の管轄となり、肥前、壱岐、対馬の3国21郡の大県となったが、同16年5月に旧佐賀県が分離し現在の長崎県となった。明治22年市町村制がしかれた当時は、長崎市1市のほか15町、289村あったが、その後新市の誕生、町村合併などにより、平成25年3月31日現在、13市8町となっている。

地形

本県は、九州の西北部に位置し、東西213km、南北307kmにおよぶ県域である。その中の陸地(総面積4,130.98km2、令和2年10月1日現在)は平坦地に乏しく、いたるところに山岳、丘陵が起伏し、海岸線は多くの半島、岬と湾、入江から形成されており、海岸線の延長は4,170km(令和2年3月31日現在)におよび、北海道につぎ全国第二位(北方四島を除くと第一位)の長さを示している。

東は島原半島が突出し、有明海を隔てて熊本県、福岡県と相接し、南は長崎半島が天草灘に望み、西海上には五島列島が、西北海上には壱岐、対馬があり、朝鮮海峡のかなたに韓国を望んでいる。

主要山系には雲仙山系、多良山系、国見山系があり、多良岳、国見山の両山系は佐賀県との分水嶺となっている。河川は各市郡ともすべて海に面しているので大きなものはなく、本明川、佐々川、相浦川、川棚川などがおもなものである。

地質

非常に複雑で、その生成も古いものと新しいものとがある。西彼杵半島、長崎半島は古生層の結晶片岩からなり、土性はおおむね砂質土である。また、西彼杵半島の西方に浮かぶ崎戸から高島に至る諸島は、古第三紀層の石炭を含む地層からなっている。

一方、対馬島および五島列島は、第三紀層の砂岩および頁岩に石英斑岩、閃緑岩、玄武岩等の火成岩が噴出しており、峻険な山岳地帯をなしている。

さらに、壱岐島、北松浦郡、平戸、松浦、佐世保は玄武岩に上部をおおわれた新第三紀層からなっている。また、川棚、大村、諫早、島原半島は上部を輝石安山岩におおわれた新第三紀層からなっており、河川の流域には、沖積地帯がよく発達し、土地はおおむね砂質土ないし粘土質である。