長崎におけるキリスト教の歴史

世界でも類を見ないキリスト教の歴史

伝来と繁栄

日本におけるキリスト教はフランシスコ・ザビエルによって伝えられ、西日本を中心に急速に広がりました。最初のキリシタン大名大村純忠によりイエズス会に寄進された長崎は、日本におけるキリスト教布教の中心となりました。多くの教会や関連施設が建てられ、南蛮貿易の中心地としてキリシタン文化が華開きました。その繁栄ぶりは、当時の記録に「日本における小ローマ」として記されています。またキリシタン大名、有馬晴信が所領していた島原半島南部には日野江城下にセミナリヨがおかれ、大名の子弟らが西洋文化を学びました。ここで学んだ天正遣欧使節の4人の少年たちは海を渡り、ローマ教皇に謁見を果たし、ヨーロッパ世界に日本を知らしめました。
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左:1550年8月、聖フランシスコ・ザビエルの平戸上陸から長崎での布教の歴史が始まった。(聖フランシスコ・ザビエル像・神戸市立博物館蔵)右:長崎は南蛮貿易の中心地として栄えた。(南蛮人来朝之図屏風・右隻部分・長崎歴史文化博物館蔵)

弾圧と潜伏

全国統一を目指す豊臣秀吉は、「伴天連(ばてれん)追放令」を発して長崎を直接支配し、1597年には宣教師やキリシタン26人を処刑しました(26聖人殉教事件)。これに続く徳川幕府も1614年に禁教令を発し、キリスト教弾圧が本格化します。そのため当時長崎にあった教会もすべて破壊されてしまいました。その後、1637年の島原の乱をきっかけに、鎖国が完成します。こうした状況のなか、ローマ教皇庁では日本のキリスト教は完全に根絶したと考えられていました。しかし、厳しい弾圧にもかかわらず、教会もなく神父もいないなかで、信徒たちは地下組織をつくり、潜伏してキリスト教の信仰を守り続けていました。また、信徒たちの中には信仰の継続のため、海を渡り五島列島に移住する者もいました。
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左:天草四郎はわずか16、17歳で島原の乱の一揆軍を率いたといわれる。(天草四郎の想像図・島原城キリシタン史料館蔵)。禁令を破って布教したため宣教師ら26人が西坂の丘で処刑された。(右上:二十六聖人殉教図・大浦天主堂蔵/右下:日本二十六聖人殉教地記念碑)

復活

ペリーの来航による開国を機に、パリ外国宣教会の神父たちが来日します。長崎でも、外国人神父により居留地に大浦天主堂が建設され、1865年献堂式が行われました。その数日後、浦上の信徒十数名が現れ、プチジャン神父に信仰を告白します。これが世界宗教史上の奇跡と呼ばれる「信徒発見」です。この「信徒発見」の知らせは、世界中を駆け巡り、大きな衝撃と感動を与えました。禁教から250年もの間、信徒たちは自らで洗礼やオラショを伝承していたのです。その後、長崎港外の島々や外海、五島、平戸、天草に潜伏していた信徒たちも次々と神父の指導の下に入っていきました。
しかし、明治政府は幕府の禁教政策を引き継ぎ、「浦上四番崩れ」や「五島崩れ」など弾圧事件が起こります。信仰の自由が認められたのは、1873年、キリシタン禁制の高札が撤去された後のことでした。
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現存する日本最古の教会堂建築として国宝に指定されている大浦天主堂は、「信徒発見」の舞台としても世界的に名高い。(左:信徒発見・長崎文献社所蔵)

信仰の証

1873年、禁教の高札が撤去されると県内各地に教会が建てられました。こうした歴史を経て建てられた教会は、九州の北西部に濃密な分布を示し、特に長崎県内には現在でも130以上の教会が点在しています。それらの教会の多くは潜伏して信仰を継承してきた地区などに、外国人神父の指導のもと、日本人大工と信徒が自らの財力と労力を捧げて造ったものです。信仰を守り続けてきた信徒の強い想いが込められた、まさに「信仰の証」です
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左:青砂ヶ浦天主堂の建設には、海岸から小高い敷地まで、老若男女を問わず、自分に見合った数の煉瓦を背負って運ぶなどの労働奉仕や豊漁の恵みなどがあった。右:老朽化と急激な過疎化から解体の話もあった旧五輪教会堂だが、信徒の熱意と力で隣接地には新聖堂が建てられ、旧聖堂を守っている。