500年以上の歴史と伝統を受け継ぐ松原刃物。灼熱(しゃくねつ)の炎で赤々と熱せられた鉄は、まるで生き物。いつの時代も松原(まつばら)の職人たちは、この生き物と闘い、寄り添ってきた。そして生み出された見事な刃物の数々。連綿と受け継がれてきた伝統は、今も男たちの手によって守られていた。
田中鎌工業オリジナル「男の包丁」
はじまりは平家一族の名刀師

 旧長崎街道の宿場町である松原宿。江戸時代、交通の要衝(ようしょう)として繁栄したこの地は、刃物の里としても知られている。
 松原刃物の歴史をひも解けば、1185年の壇ノ浦(だんのうら)の合戦にさかのぼる。大和(やまと)の国(奈良県)の刀鍛冶(かじ)・並衝行泰(なみのひらゆきやす)は刀工として平氏一門に入ったが、合戦に敗れると、源氏の追討を逃れるため日向(ひゅうが)の国(宮崎県)に身を隠すこととなった。

 時は流れ戦国時代になると、各地で領地争いが激化するとともに、刀剣の需要が増え始める。松原郷土誌によれば、1474年に並衝氏の子孫が日向の国から松原に住みつき、八幡神社の境内で刀を鍛え、農民の要望に応えて月形の鎌を作ったのが松原刃物のはじまりだとされている。以来500年間、この地では農具や包丁が生産され、今も職人たちの手によって伝統が受け継がれている。

 

守りたいのは切れ味。だからこそ一本一本、全工程手作りにこだわる。

 松原刃物の特長は、なんといっても切れ味の良さと粘り強さ。それを実現するために譲れないのが材料である。松原刃物で使用している鋼(はがね)は機械では対応できないほど硬い。そのため全工程は手作業で進められる。
 しかし、そうしたこだわりも大量生産の安価な包丁には太刀(たち)打ちできず、鍛冶屋は次々と廃業を余儀なくされていった。昭和初期20軒ほどあった鍛冶屋のうち現在残っているのは、わずか3軒である。
 その中の1軒が昭和8年創業の「田中鎌工業(たなかかまこうぎょう)」だ。作業場では地づくり、荒打ちという作業が行われていた。高温の炉で鉄を焼き、叩き、鍛えながら大まかな形を作る、包丁作りの最初の工程である。作業場はごうごうと火が燃え盛る音と、鉄を叩く激しい音が鳴り響いているにも拘わらず、無を感じさせる静かな時間が流れていた。
 手を休め、応対してくれたのは4代目の田中勝人(たなかかつと)さん。この道27年の大ベテランである。炉の温度を聞くと、1,100度という答えが返ってきた。「包丁を作る上で一番大事なのは温度。炉の温度はもちろんですが、外気の温度だって2度違えば工程は変わります」。温度調節がうまくいかないと強度が出ず、焼き割れを起こすのだという。「先代が『鉄は生き物』とよく言っていましたが、それを実感する日々です」。
 7年前、田中さんは松原刃物の生き残りをかけて「男の包丁」を開発した。
 「子どもの頃、男性たちが外で包丁を研(と)いでいる姿をよく見かけました。私はこういう風景を覚えている最後の世代。だからあの頃のように、大事にしたくなる包丁を自分で復活させようと決心したんです」。田中さんは試行錯誤の末、高級鋼材を使用した美しいフォルムの包丁を完成させた。昨今、刃物は危険だという風潮があるが、田中さんは「包丁は家族をつなぐ道具」でもあると語る。家族の絆は手料理が並ぶ食卓で深められるものだからだ。「休日は男性にもこのマイ包丁で料理をしてほしいですね」。
 田中さんの元に舞い込んでくる依頼は実に多彩だ。「牛の爪(つめ)切り包丁がほしい」「白菜の収穫包丁はないか」「鯨をさばく大きな包丁がほしい」。そば切り包丁の依頼があったときは適度な厚みを知るため、そば打ちを習うことから始めた。

 田中さんの夢はそれぞれの職人に合った道具を作り続けること。そして松原刃物の伝統を絶やさず、伝えていくことである。

 

問い合わせ先
田中鎌工業有限会社 大村市松原本町371 TEL.0957-55-8551

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