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長崎県文化財データベース 世界の中の長崎

世界の中の長崎 ~長崎県の海外交流史と文化財~

■キリシタンの歴史と長崎

《キリシタン文化の発芽》

 織田信長と豊臣秀吉の保護のもと、キリシタン布教は、天正年間(一五七三年~九二年)に著しく進展しました。

 キリスト教伝来により、有馬(島原半島南部)にセミナリヨ(キリシタン学校)が設置され、ここで学んだ少年四人(伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノ)が、一五八二年、日本人として初めてヨーロッパを公式訪問する天正少年使節として派遣されました。

 キリスト教の布教に伴って、美術(『紙本著色泰西王侯図六曲屏風』国重要文化財)や版画(『銅版画「セビリアの聖母」』県有形文化財)、音楽、活字印刷術の導入(『珠冠のまぬある吉利支丹版長崎刊慶長十二年』国重要文化財)など、南蛮文化がもたらされるとともに、長崎には数多くの教会が建てられ、キリシタン信仰に基づく生活文化が浸透していきました。

《秀吉の伴天連追放令、家康の禁教令》

 一五八七年、九州に出陣していた豊臣秀吉は、突然、伴天連追放令を発しました。それに伴い、イエズス会に寄進されていた長崎・茂木・浦上は没収され、教会も破壊されました。また、有馬や大村の教会も焼かれました。

 一五九七年には、長崎の西坂で、修道士やキリシタン二十六人が殉教しました(『日本二十六聖人殉教地』県史跡)。徳川幕府においても一六一三年に禁教令が発布され、西坂で五十五人が処刑される元和の大殉教(一六二二年)が行われるなど、キリシタン迫害は一段と激しくなりました。

 一六三七年、領主の苛政に苦しんでいた島原・天草の農民たちは天草四郎時貞を総大将に一揆を起こし、廃城となっていた原城(『原城跡』国史跡)にたてこもりましたが、キリシタンの反乱として幕府軍に全滅させられました。

 この島原の乱の後、幕府は九州の大名に長崎警備を義務づけ、全国的な沿岸警備体制を整えて、鎖国体制の確立を急ぎます。一六四一年、平戸のオランダ商館が長崎の出島に移され、ここに鎖国が完成しました。

《殉教・潜伏の時代》

 幕府の禁教政策が展開されるなかで、キリシタンへの迫害は強化され、宗門改め、寺請制、五人組、絵踏など、キリシタン摘発のために様々な手段がとられました。厳しい拷問によって棄教した者は、キリシタンに立ち返らないと誓約した転び証文を書かされました(『西勝寺文書「きりしたんころび証文」』県有形文化財)。

 キリシタンたちは、外海や五島、平戸・生月地方を中心に、殉教と潜伏の生活を余儀なくされ、各地で多数のキリシタンが摘発される事件(崩れ)が度々起こりました。

《キリシタンの復活》

 一八五四年、江戸幕府はアメリカとの間に「和親条約」を結ぶことによって鎖国政策を改め開国しました。

 さらに、一八五八年には、日米修好通商条約に調印し、長崎など五港を開港して外国人居留地を設けることを約定し、居留地に礼拝堂の建築を認めました。次いで、オランダ、ロシア、イギリス、フランスなどとも同様の条約(安政の五か国条約)が結ばれました。

 長崎にも居留地(『長崎市東山手南山手』国選定重要伝統的建造物群保存地区)がつくられて、『大浦天主堂』(国宝)が完成し、一八六五年、二十六聖人殉教者に捧げられました。この教会で、約二五〇年にわたり潜伏していたキリシタン信徒と外国人神父との再会が果たされました。信徒発見と呼ばれるこの出来事は、世界宗教史上の奇跡といわれています。

 浦上に続き、外海や五島に潜んでいたキリシタンたちも次々と神父の指導のもとに復活しましたが、幕府は引き続き弾圧を続けました。

 明治政府は、五箇条の御誓文を発布した翌日に、人々の心得を示した五種類の高札を全国に掲示(五榜の掲示)し、キリスト教を邪宗門として禁じ、三千人を越える浦上の農民が拷問を受けるキリシタン弾圧(浦上四番崩れ)を行いました。しかし、欧米各国から抗議を受け、一八七三年、キリシタン禁制の高札は撤廃されて、禁教の時代は終焉を迎えます。

 やがて、信仰を守り抜いた信者たちの手によって、県内各地に、信仰の証である教会が次々に建てられていきました。(国重要文化財『旧五輪教会堂』『黒島天主堂』『青砂ヶ浦天主堂』『頭ケ島天主堂』『田平天主堂』)(県有形文化財『出津教会』『大野教会』『宝亀教会』『堂崎教会』『旧野首教会』『江上教会』)

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