正保4年(1647)儒者向井元(げん)升(しょう)が後(うしろ)興(こう)善(ぜん)町(まち)に孔子廟と学舎等を設立、寛文3年(1663)焼失、延宝4年(1676)立山に再建し立山書院と称した。正徳元年(1711)伊勢町に移り、長崎聖堂と称した。一般には地名をとって、中島聖堂で通った。聖廟、学堂等棟を連ね、学風大いに興ったが、明治後衰退し、杏壇門(きょうだんもん)と大成殿を残すのみとなったので、現在地に移建保存された。杏壇門の門扉に、大学章句の一節を彫ってあるので、俗に大学門と呼ばれている。
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