有明海に突き出した台地上に残る肥前有馬氏ゆかりの城跡である。
もとは志(し)自岐(じき)原城といわれ、日野江城を本居とする有馬氏の支城であった。築城年代については15世末と考えられてきた説もあるが、少なくとも総石垣を備えた本丸については慶長4年(1599)から同9年(1604)頃の築城であることが、これまでの発掘調査やイエズス会の記録等によって明らかとなっている。一国一城令に伴う廃城ののち、寛永14年(1637)10月末から翌年2月末に及んだ島原・天草一揆の舞台として著名である。
城は有明海に面し東南に突出した周囲3㎞に及ぶ岬を利用して築かれた県下最大の平山城である。有明海に臨む本丸を中心として、北に二ノ丸・三ノ丸、西に鳩山出丸、そして南天草丸の各郭が配されるという雄大な規模のものであった。本丸の発掘調査では、中世末~近世初頭に属する大量の陶磁器や瓦、島原天草一揆の壮絶さを物語る砲弾、銃弾、人骨、また一揆軍が身につけていたであろうクルス、メダイ、ロザリオなどのキリシタン遺物も多く発見されている。
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