島原半島の南西部,雲仙岳に連なる標高250mほどのなだらかな高燥地にある。縄文晩期終末の墓地で,もと3群あったが2群60基余が現存する。石棺,甕棺(かめかん),穴を掘っただけの土壙墓(どこうぼ)などの下部構造のまわりに支石を置き,巨石で覆う構造をもつ。巨石と支石からなる上部構造からして碁盤形支石墓とよばれ,朝鮮半島のものに酷似するところから南鮮式支石墓とも呼ばれる。石棺墓の場合,極端に短くて深いものが多く,被葬者はそんきょの姿勢で埋葬されたと考えられる。甕棺は刻目突帯(きざみめとつたい)をめぐらせた縄文晩期土器の特徴をもつ。浅鉢や壺形土器を副葬する遺構もあるが,副葬品はきわめて少ない。また,土器に籾(もみ)の押し形のついたものがあるなど,わが国への稲作技術伝来と原山支石墓群は深くかかわっていたと考えられる。
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