敷地は南北に往来する島原街道の東側に位置し、主屋は街道に西面して建ち、北側を上手とする。主屋主体部分は桁行7間半(15.1m)、梁間4間(7.9m)、切妻造桟瓦葺き平入で、つし二階建である。正面下手側半分に桟瓦葺きで1聞の下屋をおろし、正面上手側半分は坪庭をつくり塀で囲み、門を聞く。背面は半聞の下屋を下ろす。外壁は大壁造漆喰塗りで、軒裏は出桁を黒漆喰で塗り込める。外観は屋根葺替えや壁塗りかえなどの修理がおこなわれている。主屋主体部分の間取りは通り土間部分と床上部分に分かれ、床上は喰違六間取りである。
建築年代は小屋裏の調査ができなかったため棟札を確認できず明らかではない。和釘を使用しており伝統的要素を残しているので、建築年代を江戸末期とした。ただ、大黒柱を含めて通柱の4本が、二階の一定高さで継がれていることから、ある時代に二階のかさ上げがおこなわれた可能性がある。当家は明治43年に旅龍だったという記録もあり(『島原の歴史』島原市役所)この当時に旅龍として客室を増やすために改造したとも考えられる。現在も部屋数が多く、旅龍としての面影を残す。また、万町の堀部家住宅・嘉永元年(1848)は、正面下手につく下屋内部の上手側に小座敷を設け、仏間としている。保里川家住宅も同様の位置に入母屋屋根で突出する部屋がある。現在は便所とするが、便所が建築当初からのものとは考えにくい。入母屋屋根をつくりこんでいることからも特別な部屋であった可能性は高い。
大きな地図で見る