長崎市の市街地の南側に位置する南山手に所在し、敷地はその北斜面を上中下段の三段に造成して形成されている。
1865年3月、およそ250年ぶりにキリスト教信者の存在が明らかになった「信徒発見」が起きた場所である。それに続く慶応3年(1867)の「浦上四番崩れ」は、明治6年(1873)の高札撤去に影響を与えたと考えられ、明治政府の宗教政策転換に関わった場所としても重要である。境内は日本人司祭の育成の場として整備が進められ、明治8年(1875)には羅典神学校が完成、同15・16年(1882・1883)頃までに南側上段の土地に伝道師学校が建設された。また、大正4年(1915)にはマルク・マリー・ド・ロ神父等の設計により、司祭館が新築され、現在、旧長崎大司教館と呼ばれている。
「大浦天主堂境内」は、禁教政策下において継続されてきたキリスト教信仰と、開国によって改めて日本にもたらされたキリスト教信仰及び文化とをつなぐ出来事が起こった場所であるとともに、明治時代以降は、パリ外国宣教会の日本における再布教の拠点となった。境内にはこれらを示す施設が極めて良好に保存されている点で重要かつ貴重である。
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