明治12年、外海地区の主任司祭として赴任したフランス人宣教師ド・ロ神父は村民の窮状を救うため私財を投じて授産施設の設立を計画した。同神父の設計、指導のもと建設されたのが現存する授産場で、明治16年頃完成した。
授産場の1階は作業場となっており、パン、マカロニ、そうめん、しょうゆなどの製造を行い、2階は救助院の経営母体である「聖ヨゼフ会」の会員の生活場所で、40畳の大部屋が寝室、織物の作業場、礼拝堂としても使用された。
構造は、木骨石造(一部煉瓦造)2階建、寄棟造、桟瓦葺で、堅牢な建物である。梁間9.07m、桁行23.18mの長方形の平面で北側の壁に接して下屋を増築している。
1階は12本の列柱が並ぶ1室空間の作業場で東西南北の中央部に出入口があり南面のみ窓が設けられている。周囲の壁は地元で取れる結晶片岩の自然石を天川で固めた通称「ド・ロ壁」でつくられている。
床面の中央には地下貯蔵庫があり、切石で縁取られ、木製の蓋で覆われている。
北側には茶煎り釜、かまど、便所が設けられている。
2階は4間の大部屋と東側1間の階段を含む小部屋に分かれ、全て板張りである。
南北の周囲には腰高の物入があり物入の上部に窓を設けている。
2階の天井板の上には筵が敷かれ、その上に30mmの厚さの赤土が乗っている。
マカロニ工場は授産場の付属建物としてして建設され、マカロニ製造機を収め、大正3年ド・ロ神父死去後までマカロニ製造が行われていた。
構造は、煉瓦造、平屋建、桟瓦葺で、梁間3.91m、桁行10.05mの長方形平面の堅牢な建物である。
煉瓦はイギリス積で外壁と仕切り壁を屋根まで積み上げている。
小屋組は、煉瓦壁体に架けられた和小屋組で出入口の前室には天井が張られ竈が設置されていた。奥の部屋には天井はない。
鰯網工場は明治18年、婦女子の副業として当時盛んだった鰯網の工場として建てられたが、明治19年には工場は廃止され保育所として利用され、昭和41年まで使用された。
構造は木骨煉瓦造、平屋建、寄棟造、桟瓦葺で梁間8.37m、桁行25.64mの長方形の建物である。小屋組は、直材を陸梁に用いたキングポストトラスで隅部は扇垂木としている。
ド・ロ神父の建築ではトラス小屋組を用いた最初の遺構と考えられる。
また、ド・ロ壁を建物の正面に設け、風避けとしておりこの地の風土性を考慮したド・ロ神父の思考の高さがうかがえる。この建築形態は大野教会にも使用されている。
いずれの建物も、ド・ロ神父が自ら身につけた建築知識と独自の工夫で建築した明治時代の特異な洋風建築であり、かつ同時代を中心とした社会福祉や地域産業の施設として貴重な遺構である。
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