寛文3年(1663)市中の大火で、寺内殿堂みな類焼のあと、この鐘鼓楼は山門の翌年元禄4年(1691)に再建された。のち享保15年(1730)重修。これは棟札によれば高木弥源太・同久治平が棟梁であった。この以後も数次にわたり修理が加えられた。重層の上階は梵鐘を吊り太鼓を置いたが、梵鐘は戦時中に供出して今はない。階下は禅堂に使用された。上層には四方に花頭窓(かとうまど)を開いている。これは梵鐘・太鼓の音の開放のためである。周囲に高欄をめぐらす。軒回りは彫刻彩色で装飾され、元禄期の華やかさを感じさせるが、他の木部は朱丹塗り。建物の外観は上下の比例がアンバランスで、あまり佳良とは言えない。屋根の隅鬼瓦は、北面つまり寺外へ向かって鬼面、南面の内向きは大黒天像という珍しい例。福は内、鬼は外の意味と解してよかろう。日本人の工夫である。
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