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まなぶ

オランダ坂


▲活水学園下の切通しにあるオランダ坂
石橋に下る誠孝院下のオランダ坂

石畳舗装は外国人の要求から

 美しいオランダ坂という言葉からは、文明開化の頃の、まだ中国人を除いて外国人はすべてオランダさんと言っていた時代の長崎の雰囲気が伝わってくる。坂にはいろいろな呼び名が付けられた。東山手から石橋に下る誠孝院下の坂をオランダ坂、活水学園から下る切通し坂のことをロティ坂、マリア園横の坂をドンドン坂などという調子である。時代によって通りの名称も変わるのだろう。現在は東山手の2つの坂もオランダ坂と呼び、十二番館と十六番館の前に出る切通しの坂を一般的にオランダ坂として紹介しているようだ。
 オランダ坂は舗装道路として切り石を敷き詰める石畳の技術を現在に伝えている。この技術は日本でも中国でもなければオランダであろうと考えたかもしれないが、鎖国から開国に向けた時代であることから、安政五国条約を結んだイギリス、アメリカ、オランダ、フランス、ドイツの国々が長崎居留地に入り込んでいた。中でもイギリス人の影響が強いようである。イギリス人W・J・オールトを議長とした市参事会の報告の中で借地人会の決議内容を文久元年に掲載している(The Nagasaki Shipping List and Advertiser.4 July 10,1861)。埋め立てたばかりの大浦居留地背後の東山手につながる2本の道の建設とその内教会に通じる1本の道は完全に舗装することが取り上げられた。
 教会とは英国聖公会会堂のことで、日本で最初に建てられた新教教会堂である。日曜日ごとにたくさんの外国人がこの坂道を歩いて教会に通った。イギリス人であろうとアメリカ人であろうと、その当時の長崎の人は皆、オランダさんと考えて、オランダ坂と呼ぶようになった。つまりイギリス領事と市参事会からの要求が、後にいうオランダ坂の出現のきっかけになるのである。



海外交流メモ ●交通
  オランダ坂は電停「石橋」より1分。活水学園下のオランダ坂は電停「大浦海岸通」より1分。
 イギリス領事から、歩行者便利のための完全舗装が要求された。〈省略〉当時における日本人と外国人の道路に対する考え方は、全く異なっていた。人が通れるだけの肩幅道、あるいは駕籠道さえあれば事足りたわが国と、交通機関として早くから馬車利用がさかんだった西洋との相違である。西洋では、ギリシャ、ローマの時代から道路舗装が普及していた。(北野典夫「天草海外発展史」)

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