長崎文化百選 うた文学散歩編うた文学散歩イメージ
まなぶ

永野万蔵

▲カナダ・ビクトリア市の風景

▲永野万蔵と多誉子夫人

▲口之津町八坂町玉峰寺にある永野万蔵の墓=口之津町教委提供=

カナダ移民第1号 「塩鮭キング」に

 日本とカナダとの交流は、明治初年のカナダ人宣教師の渡日と日本人のカナダへの移民に始まり、日本人移民は明治10年(1877)にブリティッシュ・コロンビア州のニュー・ウエストミンスターに上陸した長崎県出身の永野万蔵に始まるとされている。日系カナダ人100年祭が万蔵の渡来100周年に当たる1977年にカナダ・モントリオール市で盛大に開催された。
 永野万蔵は、安政2年(1853)南高口之津村(現口之津町)で生まれ、少年時代から三池炭鉱の輸出炭を運ぶ「ゴヘタ船」で働いた。19歳のとき、上海行きイギリス船のボイラーマンとなり、明治10年にカナダ西海岸のブリティッシュ・コロンビア州に上陸。フレザー川の河口でサーモン漁を始めた彼は、その後州都ビクトリア市でレストランやホテル経営を経て、日本輸出向け塩ざけ製造会社を設立して大成功をおさめる。ピークの時の明治29年の売上金は、3ヶ月間だけで1万2千ドルと言われる。ただのように捕れるカナダのサーモンに目をつけた鋭い商才で、彼は一躍大富豪となり、「塩ざけキング」などの別名で広く知られるようになった。
 しかし大正11年、ビクトリア市のメーンストリートにあったJ・M・NAGANO&CO.のビルで火事が起こり、万蔵が積み上げた王国は一気に崩れ落ちた。全財産を失った彼はその後多誉子夫人と共に日本へ帰国し、口之津で家を借りて静かな晩年を過ごした。そして、カナダに残した2人の息子たちとの再会を夢見ながら、大正13年(1924)5月21日に不帰の客となった。
 口之津の太月山玉峰寺の永野家墓所には、箱型の墓碑表に「千岳院萬嶺実相居士」、左側面に「大正十三年五月廿一日」、そして右側面に「永野萬蔵 行年七十歳 妻多誉子建之」と刻まれている。



海外交流メモ ●「ラッコ船」の日系人
 「最初にカナダに住みついた日系人は外国船の水夫として乗り組み、ヴィクトリアで下船した。その頃にはカナダと極東を直接結ぶ便船はなかったので、後につづく日系人の数は極めて少なく、1884年迄に僅か十数名が上陸したに過ぎないという。彼等の殆どは船乗りで、ハドソン湾会社に毛皮を供給するために北太平洋でラッコやオットセイを捕獲するのが目的の船(日系人は『ラッコ船』よ呼んだ)に乗り組み、北洋で稼いだ。月給は30ドル位。(中略)ラッコ猟はそのあと急に不振となり、日系船員は陸に上った。」(新保満著『日系カナダ人社会史』より)

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