長崎文化百選 壱岐対馬編
壱岐対馬

主藤(すとう)家住宅 − 厳原町 −


▲主藤家住宅の内部
保存状態もよく、対馬を代表する農家の構造を有している

19世紀中ごろ建造?対馬の代表的な農家
 対馬南端に位置する厳原町豆酘(つつ)。九州本土に最も近い港があることから、昔から本土と朝鮮半島を結ぶ航路の要所であった。
  対馬には読み方の難しい地名が少なくないが、豆酘はその代表的なひとつだ。中世には酘豆と記され、豆豆、あるいは津々とも書かれたといわれる。
  地名の由来については諸説がある。城田吉六氏の『対馬・赤米の村』(葦書房、1977年)によると、酉(とり)という偏が使われていることから、天道信仰と深くかかわっている。天道信仰の聖地である竜良山の酉の方角、つまり西方に村があたるため、豆酘の字があてられたのではないか、と城田氏は推測している。
  民俗学者谷川健一氏の『日本の地名』(岩波新書、1997年)では、豆酘は「筒の男」の意味を持つ地名のひとつという。筒は蛇の意とされ、筒の霊、すなわち海人のシンボルの蛇霊を祀(まつ)るものと解されるところから、豆酘という地名は蛇をあらわす筒に由来するという。
  主藤家住宅は、その豆酘にある主藤長太郎氏宅である。建築年代は根拠となる資料がないためはっきりしていないが、用材の形状や構造などから考えると、19世紀中ごろに建てられたのではないかとみられている。
  対馬の代表的な農家の構造を持つ。壱岐の郷土史家山口麻太郎氏の『日本の民俗・長崎』(第一法規出版)によると、建物の特色は3間取り平面に、幅1間の入り側(縁側と座敷の間の部屋)を付け、さらに2方の縁も付いている。3間取りは台所(居間)、本座(座敷)、納戸(寝室)からなり、それに土間が加わる。
  台所は広く取られ、土間は比較的狭い。1969年、国指定の重要文化財に指定された。


壱岐対馬メモ ●貴重な習俗が残る
 主藤家住宅がある厳原町豆酘は、半農半漁の村で、今では町の中心部から車で30分ほどで行けるようになったが、戦前までは対馬でも最も隔絶された村のひとつだった。
  そうした地理的特性があって、この村には古くからの貴重な習俗が現在まで少なからず残っている。「赤米神事」や「亀卜神事」などがそうである。
  「赤米神事」は、「頭仲間」と呼ばれる祭祀組織で赤米の田植えから稲刈り、俵詰め、もちつき、頭受けという当番家の交代まで年間を通じ厳格な儀式にのっとり行われる。
  「亀卜神事」はサンゾーロー祭りともいい、亀の甲を焼き、その形から天下国家の吉凶を占う行事である。旧暦1月3日に行われ、占い役の卜者は岩佐家で継承されている。
  現在では古い亀の甲の破片を火にかざす形式だけになったが、江戸時代までは海亀を捕まえ、桜の木の皮を燃やして甲を焼き、その甲にできるひび割れ具合で占ったという。

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