長崎文化百選 壱岐対馬編
壱岐対馬
上見(かみ)坂  − 厳原町 −

 
美しい眺望で知られる上見坂。海、入江、山々の壮大なパノラマが広がる

古来知られた一望千里の絶景
 厳原の街の北部約4キロメートル、朝鮮海峡に面する西部方面との分水嶺となる賀部岨(かぶそね)がある。『万葉集』(巻14)にみえる対馬の歌に「対馬能称波(つしまのねは) 之多具毛安良南敷(したくもあらなふ) 可牟能称尓(かんのねに) 多奈婢久君毛乎(たなびくくもら) 見都追思怒波毛(みつつしぬばも)」とあるが、陶山訥庵は『津島紀略』の中で歌中の「可牟能称」をこの「かぶそね」に比定している。「宗家文庫史料」のうち、文化8年(1811)に来日した朝鮮通信使関係の記録である「狼煙之覚」には「歌舞曽根」とみえる。
  岨(そね)というのは嶺の平坦になった地形をいい、この山嶺の南辺袖振山から続く北辺が上見坂である。この高台の東南部に火立隈(ほたてぐま)の称(ね)があり、烽火(とぶひ)を上げたところという。『津島紀事』(江戸時代文化年間にまとめられた対馬の地誌)には加美味坐加と訓があり、「今略して加美坐加と曰ふ。又亀坂と曰(い)ふ。根山と連接し、上郷及び東西浅茅浦を眺望す。景取最も佳なり。故に名づく」とあり、古来人々の目に映るここからの光景は壮観そのものであった。
  かつては府中から?知(けち)・洲藻(すも)方面へ越す旧道がここを通り、上見坂の峠はこの往還を通る人馬の絶好の休憩地であった。近代には眺望がきくため砲台も築かれ、その跡は現在も遺(のこ)っているが、近年公園整備がなされている。
  晴れた日には東方に青海原の対馬海峡、北方には複雑に入り組んで絶妙の構図をなすリアス式海岸と浦々のたたずまいを隔てて、秀峰御嶽(みたけ)をはじめ準平原をなす上県の山々、西は神秘漂う霊山白獄(しらたけ)が朝鮮海峡を背に屹立(きつりつ)している。時として韓国の島が遠望できる。展望台から頭を巡らして目に映る景観はまさにここを名勝としている。園内にはいくつかの文字碑もあり「上見坂や一望千里高麗(こま)筑紫」の句はよくこの高みを表現している。


壱岐対馬メモ ●在庁落しの古戦場
 対馬には古来、上見坂を「在庁落しの古戦場」とする伝説がある。宗氏初代重尚と当時対馬を支配していた阿比留平太郎氏は、対馬地頭の運命をかけてこの地で激しい戦いを展開した。在庁阿比留氏の館は?知にあり、決戦に臨み当の軍勢はこの地に陣を構え迎え撃つ態勢をとった。その時宗氏は、豆酘(つつ)から府中(厳原)に兵を進め?知に向けて進んだのである。かくしてこの地一帯の高原を血に染めて激しく戦い、やがて勝敗ありて宗氏の勝利となったのである。以後この地を「在庁落しの古戦場」というのである。宗氏が阿比留氏を追討して対馬治政を始めたことは、陶山存(訥庵)編の『宗氏家譜』にみえる。「重尚君」の項に、「寛元4年滅対馬州在廰阿比留平太郎遂」とみえる。
  むろんこれらは史実ではなく、重尚という人物も実在は確認されていない。阿比留氏から宗氏への政権交代も、争乱もなく移ったとみられ、また宗氏初代は助国とされている。

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